コインパーキング -キリトリ
人は一生交わることはないであろう誰かを
1日何人見ているのか。
バスの窓を走るように流れるあのスーツの人だかりや、何度も繰り返し使われているであろう百貨店の紙袋を持ったおばあちゃん。
どこにいても、どこかに行く途中でも、家にいても「誰か」がいる。
その場面は誰が主人公なのか、
それは誰が決めてもいいから、私はいつも勝手に物語を見つける。
毎日ベランダに出ると必ずそこにある景色は区分けされたコンクリート。
仕事、子供の塾のお迎え、恋人に会うため、または、近くの家に帰ってくる人が使うコインパーキングだ。
生ぬるい空気の漂うこの季節は、その空気に大差なくとも
いつも手元にあるはずのノートが見当たらないだけで寂しくなったり、仕事が定時に終わるだけで清々しい明日が来ることを想像できたり、
糸のように細い自分の心に敏感になる。
いくつものシーソーがある夜の公園で、何色のシーソーが風に揺れ音を立てているのかもわからないままに、その音だけを過剰に耳が拾う。
そんな無意識を誘い出すのが生ぬるいこの空気で。
5階のベランダに流れ込むその空気にまんまと踊らされる私はみつける。
私とは無関係の誰かのコインパーキング脇の物語を。
ランチ会でもしてきたのであろう別れ際の4人の若いお母さん達は、あと1分あと1分と何度も二度寝をする時のアラームのように、スヌーズモードで笑い声をたてる。
トレンチコートの腰元のベルトはショーケースを泳ぐ金魚の尾のように優雅で、スヌーズモードができる余裕を感じさせた。
その道向かいでは、不規則に歩くランドセルの列が2,3人ずつで下校。
決まりや制約のない大人に憧れていたランドセルの列のうちの1人だった時の私がふと蘇る。
平日の昼間に家にいる、言い換えると学校にいない、なんてことが許される大人は大層自由で、いつか私もそうなる時が来たら、それはとても素晴らしい気分なのだろうと想像を膨らませていたあの頃。
この日のコインパーキングの景色は、そんな大人と、あの頃の自分が目の前で交差した。
それは、客観的な立場で情景が流れてゆくパターンの夢でも見ているのかのような心地でもあった。
まだ今の私も、そのランドセルの列の1人のような気もする。
そして時々スヌーズモードができる大人たちでもあるのだろう。
どちらでもある私は、この季節特有の生ぬるい空気と同じだと思った。