子は必要?答えのない問いを持ち続けた5年

結婚してから五年、遂に親となった私。
自分で決めた選択だけど、元々は子どもが苦手だった。長い間、私は私のためだけに生きていくのだと信じていた。それがどうしてこうなったのか。
そこに至るにはいくつもの感情があった訳だけど、そのうち忘れてしまうかもしれないので書き留めておくことにする。

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女性に生まれたからには、一人は子どもを産まないと。
直接的に言われたことはないけれど、学生時代からずっと問われ続ける人生だった気がする。ふとした瞬間、たとえば公園で遊ぶ親子を見たとき、恋人と漠然とした将来について話したとき、親族が集まったお盆での一コマ。
ふわふわとした問いは年を重ねるごとに大きくなり、二十代後半にはずっしりと重みを感じられるようになった。

その頃はとにかく働くことが好きで、終電間近まで作業することも厭わなかった。がんばればがんばるほど成果が上がり、周囲から評価され、給与も上がる。学生時代、特に打ち込んだものがなかった私にとって、それは初めての青春であり、自力で手に入れた居場所のような気がした。
そんな間にも、ひとりふたりと同僚が妊娠を機に一線から退いていく。その中には、共に難しいプロジェクトを乗り越えた、所謂バリキャリな彼女の姿もあった。
いつか私もこうなるのだろうか。正直不安だった。

どうして子どもを欲しがるのだろう。
手がかかるし、経済的にも余裕がなくなるし、何より仕事を諦め自分の時間を手放さなければならなくなる。
子を成すこともそうだが、赤ちゃん自体のイメージがまるでない自分に気づいた。思い返せば、赤ちゃんと触れ合った記憶がほとんどない。(意識的に避けてきた部分もあるだろうけど。)
そんな私が親になり、子と共に生きる。あり得るだろうか。
いや、無い。二十六歳の私は、若さゆえに切り捨てるのも早かった。

しかし、それでは終わらない。
二十七歳で結婚した私は、そこから五年の間ずっと子について悩まされることになった。結婚の次は出産。人生ゲームのように、次のステージが待っている気がした。
それは夫も同じで、子育てのメリットとは?と定期的に話し合った。
ずっと二人の生活をたのしめるか?同じことの繰り返しにいつか飽きるのでは?
せっかく思い合って結婚した二人の子どもを産まなくていいのか?
でも、仕事は?ステップアップを諦め、時短で働くのか?
あらゆる意見が出るが、結局結論はいつも同じ。「現状は必要なし」だった。

そうこうしている間に三十代になり、結婚生活も五年目を迎えた。
周りは子育てしている友人ばかりである。私たちは変わらず仕事に励み、時々旅行をしたり良い食事をたのしんだり、それなりに充実した毎日を過ごしていた。しかし時折脳裏にかすめる「それで、子どもは?」という問いが、この生活のタイムリミットを告げているような気がした。
何度目かの会議、またも「現状は必要なし」と結論付けた後で、ふと「この生活をあと何十年も続けられるだろうか」という疑問が腹にずしんと響いた。例えば五年後、四十代になってもまだ、楽しい!とはしゃいでいるだろうか。六十代になって、友人たちの子が成人していく様を見て、ああ、あのとき産んでいればと後悔しないだろうか。女に生まれて、子を産む機能を備えて、それを使わず死ぬのか?答えはない、無いからこそ怖い。誰に聞いても正解は教えてくれない。これは、夫と私ふたりで決めなければいけない問題なのだ。

女性の妊娠リスクがグンと上がるのは、三十五歳以降だと言う。
今までの比にならない、とんでもないレベルの選択を迫られている。どちらを選べば、後悔がより少ないだろうか。
自力で考えるには限界があり、あるとき親となった友人たちに尋ねてみた。すると皆、「子がいない人生を考えられない」と答えた。とてもかわいい、愛しい、生まれてくれてうれしい。屈託ない笑顔を見て、この人たちは自分にとっての正解を選べた人なのだと羨ましくなった。
と同時に、そもそも子ども好きな人間に話を聞いても、私の参考にはならないのではとも考えてしまった。こっちから聞いておいて失礼な話だが、友人と私とは違うのだと心を閉じ、会話はそれまでとなった。

でも、私の正解って何なんだろう。
たとえば夫が子どもが欲しいと熱望していたら、違っただろうか。もしくはふたりのどちらかに身体的リスクがあって妊娠が望めないとわかれば、割り切れただろうか。何か絶対的な理由を求めている私たちは、それでも結局何も得られず、だらだらと普段の生活を送り続けた。

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