小さいモモちゃんの作者松谷みよ子の話
北信濃黒姫山の中腹に黒姫童話館がある。
その中には、「ちいさいモモちゃん」「龍の子太郎」など、児童文学界では有名な松谷みよ子さんを特集した部屋がある。
野尻湖に疎開したりと縁があった土地だったことが理由だ。
学生だったみよ子が疎開したそばに児童文学の大御所坪田譲治も疎開していた。
みよ子は自分の童話を書き留めてあるノートを持って坪田譲治を訪ねる。
2度目にようやく本人に会えた彼女は、ノートを坪田譲治に手渡すことに成功した。
そして、その後、東京に帰った坪田譲治の家を再び訪ねる。
坪田譲治は、田舎で突然押しかけてきた女子学生に無理やり手渡されたノートなどきっとまったく意に介していなかったのだと思う。
それなのに、東京の自宅まで訪ねてきた。
「あのノートね。ごめん。東京に帰る引っ越しのどさくさでどこかにいってしまった。また、書いたら持っておいで」
本当にあくまで想像だが、これもきっと社交辞令だった思う。
ところが、その時、すかさず、松谷みよ子は、ノートを取り出して渡したのだった。
コピー機などない時代。
みよ子は、坪田譲治にノートを渡す前に、手書きで同じものをもう一冊作っていたのだ。
それを見た坪田譲治は、びっくりして、みよ子のノートの作品を読み、本人が主催する児童文学雑誌に、その中のいくつかを掲載したのだった。
もし・・・という仮説はいくつも立てられる
「もし、同じ北信濃で疎開していなかったら・・・・」
「もし、疎開先で坪田譲治に会ってなかったら・・・」
「もし、東京の家を訪ねるという気持ちにならなかったら・・・」
「もし、その時、もう一冊のノートを持っていなかったなら・・・」
後の国際アンデルセン賞作家松谷みよ子は、生まれていなかったかもしれない。
でも、こうも思うのだ。
才能というのは、運命がいくら押し潰そうとしても、潰されずにでてきてしまう情熱をいうのかもしれない。