患者は社会の中で生きている。
昨日の記事の中で、「重篤な疾患を持つ子どもの医療をめぐる話し合いのガイドライン」をご紹介しました。その中で、絶対的予後不良の状態のお子さんに対して、人工呼吸を止めるということも話し合いの結果として容認されうるのではないか?ということまで言及されていることをお話ししました。
では質問です。
あなたが医師であれば、
本当に人工呼吸器、とめますか?
あるいは、家族であれば、
本当に人工呼吸器を止めるよう、医師に依頼しますか?
本日はこのあたりをもう少し深掘りするために、臨床倫理の四分割表最後の象限、「周囲の状況」について考えてみたいと思います。
社会って何だ?
今回の症例に戻ってみます。
私個人としては、このような状況の中、患児の家族が、患児にとっての「最善の利益」を考え、悩み抜かれて出された結論であれば、「延命治療としての人工呼吸器の中止」も、「生命維持装置としての人工呼吸器の継続(+気管切開)」も、医学的に妥当だと判断しますし、尊重されるべきだと考えています。
そう判断するために、これまで、「医学的適応」「患者の意向」「QOL」と順を追って議論をしてきたわけです。
しかしながら、医学的な症例はすべて、人々、医療施設、財政・社会制度といったより大きな状況の下に置かれています。この状況がもたらす可能性や制約によって、患者の決定、あるいは患者についての決定はプラスにもマイナスにも影響を受けます。また逆にこの「決定」が心理的、情緒的、金銭的、法律的、医学的、教育的、宗教的な影響を他者に与えます。
患者は社会の中で生きているが故に、一患者に対するごく限られた、個別の決定が周囲の状況に大きな影響を受け、また影響を与えるということです。例えば周囲の状況がこんな状況ではどうでしょう?
延命治療としての人工呼吸器を停止する場合
・倫理的な議論、あるいはその背景の理屈は納得できるものだが、延命治療
の中止を法律で禁止している。
・父親は停止を希望しているが、母親の宗教は「自然死」以外をすべて自 殺と見なし、そのような選択を禁じている。
・実は背景に経済的な理由があり、これ以上の治療の継続は難しい
・兄弟がおり、その兄弟の面倒と本児のケアの両立は物理的にできない
(だから、兄弟に迷惑をかけることは本人も望んでいないはずだ)
・人工呼吸器の数が限られており、呼吸器の余剰がない状態で、確実に救命
できる呼吸不全の患者で人工呼吸器が必要になった
生命維持装置としての人工呼吸器を継続する場合
・母親が発見できなかった「罪悪感」に耐えきれず、そのような患児と生き
ていくことが贖罪だと感じている
・姑が母を攻め続け、親はこれ以上の人工呼吸器の継続は本人の利益になら
ないと感じているが、「家族会議」でまったく話がまとまらない。
(「家族」の意見がまとめきれない)
・人工呼吸器の台数が限られており、本児に長期に使用できる人工呼吸器が
ない
・病院内の予期せぬ心停止であり、両親が当院の医療従事者に対し非常に拒 否的・攻撃的であり、医療者としては呼吸器を停止するというオプション
を提示できる状況にない。
患者は社会の中で生きている
このような状況を考慮したとき、その「医学的適応」の判断は本当に適切なのか? 親は「正常な精神状態」で判断しているのか?親は代諾者として適当か?など、臨床倫理の四分割表の他の象限の議論にも影響しうる情報が再提示されてきます。
やはり「一つ一つの判断は社会の影響を受けるし、社会に影響も与える」ということです。
四分割表の中で、「周囲の状況」として議論の遡上に載せることで、これらのバイアスを拾い上げ、より俯瞰的な議論が可能となるのです。
【参考文献】
Jonsen AR et al. 著 赤林朗他監訳 『臨床倫理学』第5版 進行医学出版社
清水哲郎/会田薫子編 『医療・介護のための死生学入門』 東京大学出版