「生きている」ってどういうことだろう?
昨日は1日 ER の当番日で、朝から救急車の対応していました。
独り暮らしの高齢者の方もたくさん運ばれてきましたが、いわゆる皆さんが想像する「救急」の派手派手しい現場ではないのが現状です。
つまり、医学的に絶対的に治療を要する状態ではなく、入院加療で「治療」すべき病態はない、のだけれど、ご飯が喉を通らない、腰を打って痛くて動けない、などちょっと一人で生活するのは難しい、誰かのサポートが必要、、という方々の生活の調整、あるいは、療養型の病床を提供して下さる病院を探す、、という作業にかなりの時間を取られます。
このような方に「医療」として病院が提供できるものは少なく、本来「福祉」が担っていくべき分野ですが、その狭間で多くの患者さんが行き場がなく、なんとか少ない医療リソースで繋ぎ、福祉へということを行います。
一方で、社会の器にも限界があります。そうすると、「家族」がその負担を負うことが多いと思いますが、介護は家族の「責任」「義務」なのでしょうか。親とはいえ、その人のために自らの人生を捧げる必要はあるのでしょうか?また、現実的に捧げることはできるのでしょうか?
多くの家族の方がその問いに向き合うのを避けながら、生活していて、いざ、、というときに「行き場がない」という現実に直面します。
あるいは「生活保護」を受けながら、それを当然のモノとして、「俺は生活保護だからお金は全部払ってもらえるんだからもっと薬をよこせ」とすごむ方もいらっしゃいます。必要性はもちろんわかっているつもりですが、社会の安全ネットって一体何のためにあるんだろうと、その場その場では感じてしまうこともたくさんあります。
先日独り暮らしのご老人(「当然」生活保護を受けている)方が心肺停止の状態で救急搬送されました。救命の為には手術が必要な状態でしたが、心肺蘇生(人工呼吸と心臓マッサージ→正確には胸骨圧迫といいます)をしながらの手術となるため、総合的な判断として救命困難と判断しました。唯一連絡がついたご兄弟にお電話で連絡しながら、medical futility(追々ご説明します)であることをご説明し、到着を待たず蘇生とすべての医療行為を中止し、死亡確認をしました。
その場面に立ち会った実習できていた学生たちと、いかに蘇生中止を判断すべきなのか?家族の同意、は蘇生中止に有効なのだろうか、ということを議論し、医療経済の話から医療倫理に関わる話まで多岐にわたる話になりました。
良い機会なので、シリーズとしては過去最長になりそうですが、子どもの文脈の特殊性も踏まえ、すこし、「医療倫理」に触れてみたいと思います。
少し考えてみて下さい
前置きが長くなりましたが、架空の症例を提示します。皆さんだったらどのように考えるか?ちょっと考えてみて下さい。明日以降、議論を進めたいと思います。