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「イマジナシオン」toron*著

 あまり歌集は得意ではないのだが、文学フリマで安価で売っていたので購入した。
 toron*さんの歌は、ネットなどでよく見掛けて、優れた感性の歌人であると思っていたが、読み通してみると、そのように感性の鋭さを思わせる歌は、ところどころに散見された。しかし、ある意味マニアックすぎて、僕のような中年男性には理解できないものもあった。五つのパートに分かれているが、全体に見て大雑把に、恋愛と失恋、会社勤めと退社、死別と悲しみ、若き日、といったような区分けのように思った。
 感性が優れていると感じたものを二三挙げると、


 果てしない夜をきれいに閉じてゆく銀のファスナーとして終電

 降り出した雨を見上げる人々が餌を待つ金魚に似る池袋

 蟻の巣に垂らす蜂蜜 もし、愛にやまいだれなどつけるとしたら


 このように歌人の豊かな感性で、独自の視点から現実を捉えたような斬新な歌が、数々あった。その感性が独自であるために、歌も斬新になるのは、多くの優れた若手に共通のことかもしれない。しかし、評価を求めるあまり、そのような斬新さが、衒奇的に小手先の技術で作り出されると、このような美しさは死んでしまう。飽くまでも、天然ボケばりの自の感性を磨いて欲しい気がする。
 また、先に述べたように、マニアックすぎて大衆的に理解しがたいだろう歌もあった。そのようなところは、もう少し判りやすい表現にしても良いかと思った。例えば、

 
  大理石のさかなの鱗を塗り込めたような時間が足裏にある


 詩的といえば詩的なのかもしれないが、大理石と魚、鱗と塗り込める、足裏と時間、それぞれの言葉が縁語的でなくて意味が乖離しているために、あまり美しさを感じられない。これはともすると僕の古い脳ゆえなのかもしないが、もう少し大衆に判りやすいような表現を試みた方が、理解者が増える気がする。
 また、特徴的な句股がりが頻繁に見られ、あまり韻律を気にしないような拘りの無さを感じさせるが、三十一音を遵守している歌が多くて、句よりも歌で決めている気がする。


  めくるめく夏の1ページめとしてサクレの上のレモンを剥がす

  カーラジオの切り換わるまで片頬は故郷の風に撫でられておく


 また、掛詞と見られる歌もあった。ただの洒落ではなくて、二通りの解釈で文意が通り、掛詞か成立している。現代歌人の短歌で、はじめて掛詞を見た気がする。上の歌は「きづく」が「気付く」と「築く」、下の歌は、「だんだん」が、次第にの意味と積み重なっている意味。


  きずつくと、きづく。関係は刃を立ててようやく香る不知火

  だんだんダンボールの積み重なる部屋にふたりで決める本棚の位置


 また、IVの連作「犬の目線」では、冒頭に小説の引用があって、「犬」に地獄を見たがっている「犬神」の意味が込められているようだ。これは、祖母の死に涙して悲しみの地獄を見た日々を詠ったのだろう。


  手のひらは護岸工事の終らない川でいつかの母も溺れた

  墓群れの草取りをして屈むときおまえも犬の眼線になれよ


 しかし、変に意識して悲しみを伝えようとしたのか、歌人本来の豊かな感性が生きていない気がした。「雨」「傘」「犬」などに特別な象徴性を持たせているのだろうが、それがあまりプラスに働いていない。「犬」はことによると「往ぬ」=「死」の意味を持たせているのかもしれないが、そのような技術は却って上述の小手先の技術のように働いてしまっていて、うまく祖母の死に対する悲しみが伝わってこない気がした。このあたりは、あまり考え込まずに、思ったままをダイレクトに詠った方が良かったのではないか思った。
 歌は、普通に考えれば、歌人の生活において感じたことや経験したことを詠うものであろうから、どうしても自然主義的な文学になる。だから、私小説のようなものであり、衒いのない著作者そのものの個性がそのまま文学になる。そこを飾り立てるのも技術ではあるが、角を矯めて牛を殺すことにならないように、技術は控えめなほうがいい。そういう意味で、toron*さんもこれからいかようにでもなる若い人なので、小手先の技術ではなく自の感性を磨けば、この歌集以上に素晴らしい歌が歌えるようになると思った。

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