なぜ人はお隣さんと争うのか?「国や村やお隣さんから学ぶ編」
先日、パキスタンがイランへ攻撃!イランの武装勢力拠点を狙ったもののようだけどもパキスタンが攻撃を受けた2日後に報復攻撃。
そのうち戦争が始まりそう。。
パキスタンvsイラン
イスラエルvsガザ地区
ロシアvsウクライナ
どれも隣の国。
市町村も同じではないだろうか。。
そして地域もそして近所も。。
どうして人はお隣さんが嫌いなのだろうか?
もちろんお隣さんが仲のいい人たちもいる。
その違いは何なのだろうか?
お隣さんを飛ばしてその3件先の家と仲が悪いとかもあまり聞かない。
日本が中国を飛ばしてモンゴル、ベトナムと仲が悪いとかも聞かない。
なぜお隣さんを嫌うのだろうか?
っというよりもなぜお隣さんと仲良く出来ないのだろうか?
ヨーロッパを見ていてもドイツとフランスは仲良くないし
スイスはどこの国とも仲良くない。。
日本も海を挟んで韓国や中国とも政治としては仲良くないし
台湾も香港も中国と仲良くない。
でも「考え方の違い」が多いと思っていて
特にこの「二つの考え方」に注目している
「感性力」
感性は人間が持つ知覚的能力の一つ。お寺の除夜の鐘をとっても動物や赤ちゃんからしてみたらただのうるさい音だけども、その音を聞いて「安らかになる」「年を迎える」「健康になる」「家族が平和に暮らせる」など人間特有の感覚
「解釈力」
同じ事柄を見た、起きた時に一般的な考え方以外の他の考え方ができる。
人生は解釈力が80%以上というくらい大切なものと捉えられていてポジティブに考えることができるのもこの解釈力次第ということになる
日本を見ると村社会の傾向がとても高い
そして村社会というのは同じ感性、同じ解釈力の人々が暮らす村。
他の情報も入ってこない、村などもない縄文時代などは喧嘩も争いごともなく平和だったという。でも村が隣に出来たりするとその村社会の感覚、解釈力が変わってくる。その村の境目は川だったりする。。でもその川の使い方で村同士の考え方も変わってくるだろう。なぜ川をトイレにするのだ?どうして食器や体を洗うのだ?
現代は近所であれその家の領域がある。これがまた村と同じ感覚であり、家には家族がいる。家族は同じ考え方を共有するように主人から教育されていることだろう。そしてそのようなことがうまくいっていた時代はインターネットなどがない前の時代まで。
ネット以降は同じ家族内でも年代によって情報格差が生まれてきて親と子供の知識が全く異なり始める。そうなると親と子供でも決別することがある。
それはやっぱり感性力と解釈力が変わってきてしまうことだろう。
情報が多くなり子供たちも大学などでは地域から離れていく。
その住んでいる地域で新しいいろんな感性や解釈力を学んでいくけども親は変わらない。
国同士が対立し合うのもその国中で教育していること、隣の国のことが問題であり、隣を尊敬していたらそんなことはない。
また家族同士でもお互いを尊敬し合っていたら問題はないはず。
でも片方が尊敬していればそれでもいいはず。
どちらかが尊敬していたら争いごとは起きないと思うのは僕だけだろうか。。
きっと仲のいい人同士は少なくともどちらかが尊敬していると思います。
もちろん両方もありますよね。
日本が中国を韓国を北朝鮮を尊敬することが出来たら
きっと争いごとはなくなると思います。
今日も良い一日を!
「