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シドニーの世界遺産オペラハウスの目の前で海賊船に住んだ1ヶ月間の話(後編)

前回のあらすじ

オーストラリアはシドニーにたどり着いた私は、衛生観念のない船での生活、欧米人に馴染めない自分に行き止まり、ひどいホームシックに陥っていた。
はたしてここから立ち直ることができるのか、はたまた更なる試練が私を襲うのか。その答えはこれから始まる後編に託される。

前編はこちらから↓


隔離とロマンスは突然に…

シドニーに来て4日が経った頃、私は少し風邪気味となり、その数日後には熱が39度に到達した。これはさすがにやばいと思い、仕事を休んで病院へ行った。

幸い日本人用の海外保険に加入しており、提携の病院で日本語で診察を受けることができた。医師は言った。「風邪ですね。お薬出しておきます。一応インフルエンザの検査もしますね。結果は4日後になりますのでまた来てください。」と。

え?インフルエンザの結果4日後?日本の病院で検査を受ける時はすぐに結果が出たが?と、ここでもカルチャーショックを受けた。しかし熱で意識が朦朧としている私はとにかく薬を飲んで安静にすることに。

もしインフルだったら危ないからと、私は念のため住んでいた船を出て別の場所に隔離されることになった。その場所は会社のオフィスの近くにあるという。

車で連れて行かれ降りてみると、私が住んでいる黒い海賊船とは別の、白い海賊船がそこにはあった。激しいデジャビュに襲われた。

どうしてもこのシドニーでは、私は船から逃れられないようだった

白い海賊船にも住んでいるクルーが数人いたが、私は空いていた個室に住むことになった。初めてその船に足を踏み入れた時、船の甲板で本を読む青年がいた。私は彼を見た瞬間、人生で初めて一目惚れをした

一目惚れなど私は信じるタイプではない。だが、この時の現象に無理やり理由をつけるならば、私の体は物理的な熱に浮かされていて、本を読む彼は私と似たような大人しいタイプに見えて、優雅に甲板に座る姿は映画のワンシーンのようだった。波長がピタリと合う感覚がした。要するに、運命とやらを感じてしまったのだ。

軽く挨拶をすると彼はイギリス出身で名前はアレックス(仮名)ということがわかった。

後に彼を知れば知るほど、私が初見でイメージした通り、とても穏やかで優しい青年だということが分かった。船で生活をともにするみんなは若くて元気でうるさい連中が多かったが、彼といると落ち着くことができた。

残念ながら私はロマンスを語るのは得意ではないので、彼とのその後の進展についてはこの記事では省くことにする。

とにかく私は、軟禁されていた城から飛び出しハンス王子と出会ったアナのように、生まれて初めて一目惚れというものを体験した。


ラブコメの中で生まれる友情

それから高熱と咳にうなされる数日を過ごしたが、よくわからない突然の恋に私の胸は少し踊っていた。

そんな中、その船に住む男の子が私の部屋を訪ねてきた。彼はりんごしか食べていなかった私を心配して、「大丈夫?ジャパニーズフード作ったから食べて!」とうどんを渡してくれた。彼はディラン(仮名)といい、オージーの青年であった。

ディランはとても明るくお喋りで日本人の女の子が大好きで、そしてとても心優しい青年だった。私を見かける度に、「僕と結婚する?」などと良く言ってくるようなお調子者でもあった。

今思うと、船の上で一目惚れをしたかと思えば、違う男に求婚されたり、どこかの乙女ゲームみたいなことが私の身に起こっていた。

少し体調が良くなると私はディランとよく話をした。私が英語が上手くなりたいと言うと彼は「大丈夫!僕が英語を教えるし、ここはみんな英語を話すから必ず上手くなるよ!」と励ましてくれた。

大勢の中でコミュニケーションを試みるといつも上手くいかず落ち込んでいた私は、1対1でじっくり話を聞いてくれる人の前では落ち着いて話すことができた

私は、みんなの輪になかなか入れず英語でコミュニケーションを取れない自分に嫌気がさしていたが、少しだけ彼の言葉に救われた。


悩みは続くも楽しい日々

最初に病院に行ってから4日後にはかなり体調も回復していた。再度検査のため病院に行くと「インフルでしたね〜」とあっさり告げられた。

いや、治ってから言われても!!とツッコミを入れたくなったが、ここはオーストラリアで、日本での常識は通用しないのだと私は受け入れ始めていた。

最初は到底受け入れられないと思っていた船での生活にも、気づけば慣れていた。人間の順応力は侮れない。とんでもない荒療治ではあるが、潔癖性な私が少なくとも他人との共同生活を許容できるレベルまでになっていた。

この体験を通して私はまた一つ自分を知った。環境には3日で慣れる

それからの日々は、徐々に同僚のみんなと親交を深め、シドニーの街を観光したり、バーやクラブに行って遊んだり、フェリーに乗って周辺を巡ったりした。

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相変わらず、大勢の輪にいると、早口で盛り上がっていく会話についていけず落ち込むことも多かった。でもそれは、確実に私の英語を学ぶモチベーションにもなっていた。「もっと英語を話せたらもっとみんなと仲良くできるのに!」と気持ちばかりが先走っていたかもしれない。

だた、私はそれなりにこの暮らしをエンジョイしていた。カルチャーショックとホームシックとインフルエンザを克服した私は、ようやくシドニーという美しい街を堪能し始めていた


別れの決意

そうしてシドニーでの日々を少しずつ楽しむことができていた私に、またスパルタエージェントから連絡が入った。「希望していたファームの仕事に空きが出たんだけどどうする?」と。

私はもともとオーストラリアに来る前から、ファームでの仕事を希望していた。都会よりは自然が好きだし、日本ではあまり経験する機会がなかったことだからだ。

せっかく今の生活を楽しんでいたところで、この生活を手放すのはあまりにも惜しい気はしたが、私は人生経験を積み、自分を成長させるためにオーストラリアに来た。今ここに留まるよりはまた新たな環境に飛び込むことで、新たな自分に気づき成長できるかもしれないと思った

とにかく人生を生き急いでいた私は、悩んだ末ファームに行く決意を固めた。

(この時はまだファームでの生活環境が海賊船よりもひどいとは想像していなかった。。)


救われた友の言葉

ファームに行く決意をしてから別れまではすぐだった。それからは残りの日々を惜しむように過ごした。気づけば、最初に「こんなもんか」と思っていたオペラハウスは私の家も同然の存在となり、見ると安心感すら覚えるほど好きになっていた。

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この1ヶ月間生活をともにしてきた同僚は、もはや仲間とも呼べる存在になっていた。寝食と仕事をともにすれば家族以上の絆が生まれる。

そんな仲間の一人に、リカ(仮名)というフランス人の女の子がいた。彼女は毎日夜に会うと「How was today? (今日はどんな1日だった?)」と話しかけてくれて、拙い英語で語る私の話を聞いてくれた優しい女の子だった。

そんな彼女から別れ際にもらったメッセージにこんなことが書かれていた。

「一人で知らない場所に来て、新しい言語を学ぶことは簡単なことじゃないって、私は知ってるよ。でもあなたは大丈夫。」

その言葉を読んで、号泣した。
誰も私の悩みを分かってくれる人はここにはいないと思っていたのに、ちゃんと見ていてくれた人がいた。

私はずっと、自分の苦悩や頑張りをただ誰かに認めて欲しかったのだ

苦労しなくても英語が話せる欧米人に囲まれて、輪に馴染めない自分の性格に悩み、居場所を探していた。そんな自分を認め慰めてくれる言葉がそこにはあった。言葉が通じなくても私をちゃんと分かってくれる人がいたことが、涙が止まらないほど嬉しかった。

結局、コミュニケーションは言葉だけでは成立し得ないし、私には私にあった人との関わり方がある。日本では言葉に頼り切って人とコミュニケーションをはかっていた私は、言葉が通じない土地で、その分人をよく見て自分の行動で伝えることの大切さに気づき始めていた


終わりに

世界遺産が自分の家に思えるなんて、とんでもない環境で生活していたのだと今更ながらに思う。

トイレもままならない船に住んで、雨漏りがする部屋のベッドで眠りにつき、オペラハウスの前で歯を磨いて、欧米人に囲まれ仕事をし、ホームシックで3日間泣き腫らし、インフルエンザになって、一目惚れをして、そういえばiPhoneをシドニーの海の底に落としたりもした。

悩み、試行錯誤し、楽しみ、自分を発見する喜びを知った

大学卒業したての赤ん坊で社会を知らない0歳児だった私が、いろんなことを感じて1歳児くらいにはなったかもしれない。

これは私のこれまでの人生で最も濃い1ヶ月間の出来事である。


そして私はこの後もオーストラリアの地で、知らずにいた自分の心と向き合うことになる。まだ旅は始まったばかりなのであった。


おまけ

ここまでお読みいただきありがとうございます。最後に、私が実際に住んでいた海賊船の素晴らしい写真を載せておきます。※フォトグラファーの友人が撮影したものです。

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