『悪霊少女』でまだなお進化するポルノグラフィティ岡野昭仁のボーカルを堪能する
ポルノグラフィティの楽曲には、多種多様なキャラクターが存在する。『Century Lovers』の底抜けに明るい光のような「僕」、『ヴォイス』の澱みの底にいるような「僕」、『サウダージ』の恋心の具現化としての「私」、『Zombies are standing out』のゾンビ(のような生きる屍)としての「僕」、また『カルマの坂』『月飼い』『横浜リリー』などのような一編の物語の主人公たちなど、枚挙にいとまがない。
それら魅力的な楽曲のキャラクターたちを引き立てるのが、ボーカルである岡野昭仁の表現力である。岡野昭仁のボーカルによって、歌詞は単なる詩ではなくなり、主人公たちは命を吹き込まれ、聴き手にその心情を訴えてくる。その力はこの23年間で練り上げられ、磨き上げられ、今まさに最高潮と言っても過言ではないレベルにまで到達している。
それを改めて実感させられたのが、8月にリリースしたアルバム「暁」に収録された新曲『悪霊少女』である。
タイトルが先行発表されたとき、『悪霊少女』がどんな曲かは想像がつかなかった。なんとはなしにボカロ系か、はたまた曲順が『Zombies are standing out』の前であるがゆえに何かの比喩として「悪霊」「少女」という言葉が使われている、ストレートに悪霊についての曲かと思っていた。ところが歌詞カードを開いてみれば剛速球かつ変化球のラブソングで、驚いた度肝が飛んでってしばらく戻ってこなかったくらいだ。
『悪霊少女』は悪霊ではなく、初めての恋に戸惑い夢中になるいたいけな少女のことであり、そんな彼女を「悪霊が憑いた」と腐すのは大人たち(しかも男親)の方なのだ。物語と登場人物それぞれの思惑と主人公の心情が重なり合う、それだけで小説のような歌詞は、作詞を担当した新藤晴一の最も得意とするところだ。
曲を聴いて、さらに驚いた。歌入りの前のおどろおどろしいギターフレーズ、泣き叫ぶようなストリングス、疾走感のあるアレンジは何か恐ろしいものから逃げ惑っているかのようだ。曲の構成は一般的なJ-POPから外れてはいないのに、1音たりとも聴き逃がせない。「今風」のポルノグラフィティのサウンドが盛り込まれた曲になっている。
そして、ともすればしっちゃかめっちゃかのバラバラになってしまいそうなこの曲をまとめ上げるのが、我らが岡野昭仁のボーカルである。
『悪霊少女』には、4人の登場人物がいる。主人公(心情の語り手)である「私」と、「私」の父、母、神父である(驚いたことに、ラブソングであるにもかかわらず「私」が恋をしている相手については一文字も語られていない)。Aメロでは、4人それぞれの台詞が歌詞の一部になっている。
神父とはキリスト教カトリックの聖職者であり、男性しかなれない存在だ。同じ男性である父親は神父の意見に同調し、娘である「私」のことを思い十字架をかざすのである。恋のさなかにいる「私」にとっては死刑宣告にも近い二人の台詞を、岡野昭仁にしては珍しく低く囁くようなトーンで歌うボーカルにぞっとさせられる。
かと思えば、
恋をして身も心も変化することに戸惑い不安になる「私」と、そんな「私」を静かに導こうとする強い母の声を見事に歌い分けている。かつて自分も戦士であり、恋を戦い抜いた当人としての母の台詞の歌われ方は、同じ大人/親でありながら神父や父親のそれとは明らかに異なる。
この絶妙な4人の歌い分けが、この曲を平坦なものにさせない。近年の岡野昭仁のボーカルにみられる新たな一面を、最大限に引き出した曲であるように感じる。それは、彼の十八番であるスーパーロングトーンや、新たな武器となった美しいファルセットのような、技術的な部分にとどまらない。
以前も別記事で述べたが、かつての岡野昭仁のボーカルは、主人公になりきることで曲を成立させてきたように思う。岡野昭仁は恋心との別れを決意する「私」であったし、失ったものの大きさに気づくのが遅かった「僕」であったし、愛されたいと願ってしまった「僕」そのものであった。だからこそ曲の主人公の心情がダイレクトに聴き手に伝わり、カラオケで歌われやすくとも(=メジャーな構成の曲であったとしても)誰も真似はできないオリジナルな楽曲になっていた。
しかし近年は、主人公や楽曲の舞台から一歩引いた、ボーカルの説得力だけで押し切らない歌い方がされるようになったと感じる。この曲の岡野昭仁のボーカルはいわば物語の語り部であり、どこまでも第三者視点である。
語尾を小さく震わせることで、昂ぶる感情を抱える少女の心情を代弁しながらも、熱くなりすぎていないボーカルがきちんと「説明」してくれているように聴こえるのはわたしだけだろうか。
それに反して、続くサビでは一音目から、お馴染みの強いボーカルで少女の恋を「暗黒の館」「呪い」「身を焼かれる」と断じる。これは終盤、少女が自らを守ろうとする(思い通りにしようとする)親から離れ、恋とともに生きることを決意したラスサビにおいても同様である。ラブソングでありながら、その恋の中心にいるはずの少女をボーカル自身が俯瞰して見ているのだ。
これまでの岡野昭仁のボーカルならば、先のBメロにももっと力を込めて歌っていたように思う。しかしこの曲では、各小節ごとに力を意識的に出し入れしながら、登場人物のどのポジションにも肩入れしない、「神」の視点での表現を強めている。これを可能にしたのは、20年以上の時を経て作詞曲の幅が拡がった新藤晴一の成せる業とも言えるし、その楽曲を我がものとすることができる岡野昭仁の進化であるとも言えるだろう。
最後に注目してほしいのはアウトロのフェイクである。ソロプロジェクトを通して、「フェイクを取り入れることに恥ずかしさがなくなった」と語っていた岡野昭仁であったが、この曲のフェイクはまるで、恋という悪霊に憑かれた少女の哀しい遠吠えのように聴こえてくるのだ。この曲のボーカルでこの最後のフェイクだけが、少女の本心を表現しているような気がしてくるのだ。そういう意味で、最後まで聴き逃がすことのできない曲である。
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というわけで、岡野昭仁の新境地を目撃することのできるドドドド名曲『悪霊少女』についてなんやかんや書いたんだけど、昭仁さんの歌い方がどう変わったかなんて言葉にするのめちゃくちゃ難しいし、聴けばはっきり分かるからこんなnoteを読むよりとにかく聴いてほしい。いつまでも変わらないどころか、全盛期と言われたあの頃よりももっともっと今が全盛期だから!!好きが加速しすぎて全身持ってかれそうなんだよこっちは!!お誕生日おめでとうございますこれからもどうか健康で楽しく歌ってください!!!!よろしく!!!!!!!
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