【短いお話】約束の場所
もう我慢できなくなった。急に駆け出したせいで、足が縺れる。緩んだ肺がめいっぱい膨らんでは縮む、その繰り返しで息が止まりそうになる。
大きな声で笑い出したくなるのをぐっと堪えて、肩にかけたショルダーバッグを胸に抱えた。見てくれを気遣ってはいられない。汗は座席を確認してから拭けばいい。出番を待ち望んでいたタオルは誇らしげに、バッグの中に納まっている。
(会える、会える、もうすぐ会える!)
駅を早足で抜けて、久しぶりの街並みを横目にまた走り出す。二重のマスクの隙間から乱れた呼吸がこぼれても、逸る気持ちを抑えられない。
あの怒濤の光の渦が消え、世界中の音が止んだ日から、もう二度と会えないかもしれない未来すら想像した。遠い記憶になってしまった最後の邂逅を抱きしめて、今日まで生きてきた。いつ息切れしたっておかしくなかったのに、ちゃんとここにたどりついたのだ。
スマホの地図アプリと地形を見比べながら見つけたその建物は、夜の帳が下り始めた街にぼんやりとライトアップされて、まるで宝の在り処みたいに見えた。呼吸を整えて、チケットアプリを起動する。日時、場所、間違いない。
(……会いに来てくれてありがとう)
約束のしるしを見せて、ロビーに入る。人のまばらな階段を抜けてホールに入れば、待ち望んでいた光景が広がった。皆一様に顔を綻ばせて、始まりのその時を待っている。
声は出せない。名前も呼べない。共に歌うことも叶わない。それでも、待っていた。この瞬間を、彼らの音に溺れるこのたった二時間を。
開演間近のアナウンスが入り、急いで座席を探して座った。どうせすぐ汗まみれになるから、化粧を直すのは諦めた。ステージは遠くて、こちらのことなんか見えないだろう。どんなにこの日を待ちわびたか、彼らには分からないかもしれない。
でも、それでも、わくわくが止まらない。あの光に飲み込まれたい。あの爆音に圧倒されたい。あの歌声に、あのギターに、それだけに包まれたくて、ここに来たのだ。
(会いたかったよ)
そう、会いたかった。彼らに、彼らの音楽に。
照明が暗転した。みな一斉に立ち上がる。首にかけたタオルを握りしめて、暗闇に目を凝らして、そして。
(はじまる、)
小さな息継ぎと、ホールを裂くような一音目が直接脳に叩き込まれる。次いで、割れんばかりの歓声の代わりに、自然と始まった手拍子がホールに響き渡った。
ホールを満たしていく音と光に、立っていられないような気さえした。少しずつ音が重ねられ、身体の奥に響いてくる。わずかでも聴き逃がすまいと、全神経を鼓膜に集中させた。
突然ステージが眩しく照らされて、その姿が浮かび上がる。実在さえ疑った彼らが、今、そこにいる。歯痒い日々を乗り越えて、あの日の約束を果たすために。
(また会えた、会えたね)
胸の奥がぎゅっと震えた、その震えは一生彼らには届かない。伝わらなくてもいいと思える感情があることを、彼らに出会って初めて知った。わたしがあなたにあえてうれしい、それだけで今幸せなのだ。
そして、この約束を次に紡いでくれることが、約束を叶えてくれると確信できることが、未来への希望のように心に灯る。そのぬくもりはあたたかく、背中をそっと押してくれる。
(ありがとう、会いに来てくれて、ありがとう)
彼らは光だ。わたしを導く、どこまでも連れていく光だ。
突き上げた拳は、ステージからの光に照らされ、眩しく瞳を揺らした。
***
昨年の10月、18年ぶりにポルノグラフィティのライヴに行った。そのすぐ後に昭仁さんの誕生日があって、楽曲についての記事をnoteに書こうと思ってたのに気づいたら短いお話を書いていた。たぶん、あの日の気持ちを何かの形で残したかったのだと思う。それはもう無意識のうちに。
わたしがどんなに彼らに会いたかったか、彼らが知ることはない。わたし自身にも一言では言い表せないくらいいろんな感情があって、それでもあの日彼らにあって、存在を確信して、彼らの音楽を浴びたことはこの上ない幸福だったってことを、いちばん大好きなひとに伝えたかったのかもしれない。
約束の場所が準備されるように、今年も祈る。まだ声は出せないだろうけど、会えてよかったと伝え続けたいから。