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評価されるは「普通の女」なのか
「あの子は東大卒で美人で3か国語ペラペラでキャリア官僚でバリキャリだけど話すと意外と普通の女の子なんですよ」
「あの人はハーバード卒でモルガンスタンレーの一番の出世株で年収3000万円で向上心が強くて、でも話すと意外と普通の男なんですよ」
この二つを見て同じような感情を抱けただろうか。
だとしたら本当の男女平等の思想の持主だと思う。
前者にはイメージアップ、後者にはイメージダウンの印象を持った人も多いのではないだろうか。たとえ男女平等主義者であっても。
バチェロレッテが「意外と普通の女の子だよね」というようなことを言われて激怒し、流ちょうな英会話などを披露して「普通ではない」というアピールをした、というシーンを見た。
たぶん言った男性は「褒めことば」として「意外とふつうの女の子」と言ったのだと思う。
彼女の有能さ、努力、強さ、これらが並大抵ではないと分かりつつも、やさしさ、あどけなさ、素直さ、実直さ、かよわさ、などこれら「普通の女の子」でも持ちうる要素もあなたも持っていますよね。という意味だろう。
けれど彼女はカチンときてしまい「ふつうじゃない」姿をお披露目したということだ。
彼女の有能さを否定したわけではないのだろうけれど、これらに対する賞賛なしにいきなり「普通」の部分をほめてしまったのがまずかった。
しかもそれが「有能さをほめるよりよい誉め言葉」と言う認識がまずかったと思う。
ここに日本の男尊女卑的な思想が奥深くに根付いていると思う。
かくいう私も男女平等主義だし、仕事は男性と同じくらいやっている。
しかし、前者の「女の子普通褒め」のほうに好印象を持ってしまった一人だ。
「有能だけど意外と普通の女の子」にはやさしさや母性と言ったものを感じ「有能だけど意外と普通の男」にはたよりなさを感じる。
ここに男女の「かくあるべき役割分担」のイメージが根強く刻まれているということが分かる。
こわいのはふだん全く意識していないのに「奥深くに刻まれている」といことだ。意識下に上がっていないのでこの無意識レベルの差別がどこでどう作用しているのかわからず、自分や他人を無意識にコントロールしているところがあるからだ。
それは父母の役割分担を見て、「女の子らしくしなさい」という昭和の教育がまだ残っている時代に生きたということもあるだろう。
私は料理が好きだけど「料理を評価してくる男性」は一切排除している。
料理するの?と聞かれわざわざ「しません。お金を出して買います」と答えたりする天邪鬼である。
だって料理なんてはっきしいってなんの努力もいらない。スーパーで買い物するスキルとユーチューブを再生するスキルがあれば誰でもできる。
それよりも努力をしてなしえたことや大したことないが料理よりは希少性のある特技や才能だってある!と自負している。
それを見ずにいきなり「自分の腹を満たしてくれる」というレベルの低い意識から評価してくるのが腹が立つ。
「いやいやそんな難しいこと言わないでよ、ただ女の子らしいなと思っただけだよ」というその発言にも男尊女卑の意識を見てイライラしてしまうのである。
おかげで私の彼は「手料理がきらい」「おふくろの味がきらい」というこれまた希少性の高い男性である。
料理も披露しなければお掃除も彼のほうが得意。
私の何を評価してくれたのかは不明だが、「普通ではない何か」を見てくれたのだろう。と思っている。
「やさしさ」や「気遣い」ができる「普通の女の子」それはそれで素晴らしい。キャリヤや努力や才能がやさしさや気遣いよりも価値があると言いたいのではない。
それならば「やさしさがある」だけの「ふつうの男」も同じように評価されなければおかしい。おんなのこばかりが「ふつう」を求められる構造が歪みがあるのだ。
「ふつう」は素晴らしい。でも現代の女の子は「普通ではない努力」もしているのだと忘れないでほしな。と世の男性には言いたい。