褒められたことが無い
シンクにたまったお皿を洗いながら、優里の「ドライフラワー」をくちづさんでいた時に、ふと、子供の頃の事を思い出した。
テストの点で、親から褒められたことが無いなという点である。
もちろん、鍵っ子だった訳であるから、100点の答案用紙を片手に家に帰ったからと言って、誰も家にはいなかった訳であるが。
そんな事で、ふと、自分の子育てに投影してみた。
そういえば、我が家の二人の子供の答案用紙を見せてもらった記憶が無いのである。
答案用紙を閉じるファイルはあったのであるが、自分自体もテストの点に興味が無かったようだ。
子供の頃、幼稚園から、月・水・金は、そろばん。火は、ピアノ。水は、習字・日は、教会の日曜学校のスケジュールで一週間が回っていた。
自宅には、百科事典と、図鑑が揃っており、
小学校の帰り道に、学研の科学と学習を受け取り、月1回近所の駄菓子屋さんで、小学館の小学〇年生を一学年上の雑誌を受け取りに行っていた。
4年生の時に、教会で英語を習ったが挫折をし、5年生からお汁粉が食べれる元小学校教師の学習塾に通った。
それらの習い事でも、親から褒められた記憶は、一度もない。
我が家は、貧しかったが、子供にはお金をかけてくれる家庭で、おかげさまで、高校まで、難なくそれといった努力もせずに、走り抜けた。
たぶん、それらの努力は努力と感じない感覚が身についていたからではないかと大人になって感じた。
中3の時に、母親から「絶対に公立に行って。うちは、お金が無いんだから。」と言われたので、滑り止めの私立を拒否して、公立一本で受験した。その話を晩年、父親に話したら、父親からは、ものすごい剣幕で、怒られた。
高3の時、母親から「大学は、国立しかだめだから。」と言われて、大学はあきらめた。高3の時に、いきなり言われてもと。
それで、大人になった時の母親の言い草は、「お前は手のかからない子だった。」だった。
母親は、お金を稼げばいいとだけ思って、働いてきたらしい。
そんな幼少期から言われ続けてきた言葉は、「やる事をやれば、何をしてもいい。」である。
親との相談の思い出は無く、自分一人で、こつこつ、やる事をやっていたというイメージだろう。
そんな私が、子育てをすると、二人の子供には、口うるさく、「勉強しろ、勉強しろ」と言っていた。
言っていた割に、テストの点を確認する事はしなかったね。
もっと、母親にかまってもらいたかったのかもしれない。
母親は、小さい頃から英才教育を受けたアジフライに、自分が教える事はないと考えていたふしがある。
母親の遺品からは、母親がどんな事を考えて生きてきたと記した文書は、残っていない。
ただ、働いている後ろ姿ばかりで、他人よりも母親を知らない。