母親の記憶

母親は、仕事ばかりで、溝があった。

母親の記憶は、幼稚園の頃である。

母親は、当時、パン屋さんでパート勤めをしていたから、母親からパンの香りがして、母親の事が大好きだった。

小学校に上がると、毎朝、通学路にあったパン屋さんまで、母親に連れられて速足で登校していた記憶である。

母親がパン屋さんで働いているので、パン屋さんの電話番号を暗記していた。

まだ、自宅に電話が無かった時代である。

ランドセルの十円玉が一枚入る小さいお財布のキーホルダーの中に、十円玉が一枚入っていた。

ある日、母親が、知り合いの洋服の仕立て屋さんのお宅にいるから帰りに電話をしてと言われていたので、教えられた電話番号の紙を見ながら、通学路にあった赤い公衆電話でダイヤルを回すのだけれど繋がらない。

なんども、なんども、ダイヤルをするのだけれど、繋がらなかったから、そのお宅まで、行った。

番号の「0」も回さなければいけないという事を知らずに、「0」を回さず、ダイヤルしていたからである。

こんな事もあった。

母の日に、母親にカーネーションをプレゼントしようと、おこづかいを握って花屋さんに行ったが、お金が足りなくて買えなかった。

という記憶をたどると、小さい頃は、母親が大好きだったようである。

いつから、母親が遠い存在になってしまったのだろう。

結婚するまで住んでいた実家は、借地で立ち退きにあった。

そんな関係で、そのあと、両親は、ローンを組んで家を建てた。

借地の時も父親が手作りで、関東大震災でも倒れなかった長屋を基礎から組んで家を建て直してくれた。

そのために、両親は、働いた。

そのために、アジフライは、鍵っこで、一人お留守番をした。

アジフライにとって、「家」「家」と「家」の事で頭一杯で働いている母親が嫌いだった。

両親から、やる事をやっていれば、何をしても良いと言われていたので、勉学に励み、両親からとやかく言われることもなく、勉強しろとも一度も言われず、九九を覚えるのだって、そろばん教室の先生との掛け合いだったから、母親とのかかわりが無く育った。

母親からは、手のかからない子供だったが、その反面、かかわりが少なくなってしまった。

そんな思いしかなくて、他人に、母親がどんな人だったか、問うような状態だったのだけれど。

実家を処分するにあたり、不動産屋から送られた登記簿謄本を読み解いて、悪いのは、地主で、母親は運命に翻弄されていたことを知る。

ただ、未だに賃貸生活なのは、自分の育った環境に反抗するためで、家族とのふれあいを優先した結果でもあり、後悔はないが、本当に、不動産は、人の人生を惑わすものだと登記簿謄本は、語っていた。


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