社会適合/障害について徒然に
僕ら20代にとって、能力の優劣を競争することはきっと幼い頃からの習慣なんだろう。違和感がない。スポーツでも勉学の競争はもちろん、それらを裏付ける集中力全般、儒学主義の作法、家庭状況など、あらゆるもので比較されてきただろう。小中学校は元々戦争に活かせる兵隊を養成することを目的に集団生活を学ばせるために作られた施設だと考えると、まあおかしくもない。ただここで勘違いしないで欲しいのは、教師は小中学施設の当初の目的を果たそうとしているわけではないかもしれない。それとはまた違う誇りと信念を持って望まれているんじゃないかなと感じる。
本題。
あらゆる能力なんてみんな違って当たり前。
正規分布のように散らばっているのかすら怪しい。なぜなら能力は家庭状況に大きな影響を受け、家庭状況は正規分布なのかというとどうなん?ほんまに中流層が多いのか?
まあまあ、なかなか言いたいことに辿り着けないのではっきりと。
「普通」はどこかの誰かさんが決めたラインに過ぎない。「障害」はそのラインを下回ったに過ぎない。障害なんじゃない.それは僕のナチュラルだよ。社会の方からこっちに寄り添って適合しにこいや。
うまくいった例。
・メガネ・コンタクト
これらがなければどれほどの人が障害者になっただろうか.って思うじゃん??違うんよ。メガネやコンタクトなしにこの今の時代を同じように生きていける人がどれだけいるか考えれば、ほぼほぼいないだろう。きっと見える世界について「普通」の定義が変わるんよね。何も見えないのが普通になる。となると本の文字サイズ、スポーツのボールのサイズ・色など色々変わってただろうね。
だから、どうなんやろ。今は多様化が謳われる時代、人と異なることを理解できなくても存在を認めることが求められている。それで初めてあなたのアブノーマルも社会からギリギリ認められるのさ。
普通なんて気にすんなよ。私は私。あなたはあなた。
#IAMME #YOUAREYOU
社会から外れてる?違う違う、社会が時代に追いついてないだけ。思わねえか、デジタル化に遅れを取ってたり。いまだにATM商売繁盛してたり。
一つ
ならば、障害はノーマルだから何も特別なケアが必要ないんじゃないかって?割引ずるいって?
それは違うと思う。逆に聞きたいけど人を判断するのになんで社会基準のメガネでしか見れないの?それは障害/健常という言葉に甘えてる
健常ならなんでも問題ないか?
障害なら何もできないか?
違うでしょ
例えばデート考える時だって、多少は気温とか徒歩体力とか考慮するんじゃない?人には元来そーゆー違いがあるということ。それは障害という言葉では重過ぎ、健常と言うには言葉に釣られて盲目になってる。
人のことを人間だと思えば、それでいて接するなら、男だろうが女だろうが年齢だろうが一切関係ないはずなんだ。ただそこに2つの心があって、それが会話するだけのこと。
書いてて思ったけど、障害/健常のようみ言葉に落とした時点で人のことを白黒で分けてやがる。うまく表現しても24色ぐらいだろ?人間もっと繊細で連続的で、たとえRGB+光度があっても人間を文字で表すには足りねえんだ。
だから人と接するには人として扱う方がいいんじゃないかと、僕は思います。私の人柄を、あなたの人柄を文章では表せないと思います。
でももっと正確に表すために近似する方法はある。
具体例を連呼する.こういう時にこうしてああいう時にああしたような人。またはああしなかった人。みたいに。
結論
#IAMME #YOUAREYOU
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?