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絶望のブリーフ

今日は、秋の諦めたような冷たい風が吹いて、赤く焼けた葉を揺らすので、感傷的な話をするうんちの話だ。

僕はうんちをよく漏らしたなぜだかよく漏らした小学生の頃に3回くらいは漏らした正直に言えば大人になっても漏らしたのかもしれないでもあれば腸の様子がおかしかったからカウントしない健全な状態で自分の便意とコミュニケーションが上手く取れなかったが故に生じたうんこ漏らしだけをカウントする。

最初のうんち漏らしは小学生1年生の土曜日だったとおもう。週休二日制が導入される前、土曜日は3時間だけ授業があった。

うららかな春の暖かな日差しの下、ひとりゆっくり通学路を歩く。ランドセルは大きく、黄色の帽子はこめかみに隙間があった。

うんちが、したかった。

でも、学校に着けばうんちが出来ると思っていた。家から小学校までは歩いて5分。なんてチョロい消化試合だ。

そして中間地点で、そのチョロい試合の最中、僕は漏らした。

立ち止まり、ブリーフが重たくなっていくことを感じた。今思えば、なぜあと2分半我慢できないのか。そして、そこまで限界なのであれば、2分半前になぜしておかなかったのか。あほやろ、おまえ、と、言う。

けれど当時の僕は、そのどちらも採択せず、予定外の場所で、路上で排泄するというアクシデントを掴んた。

うんこ漏らしの後は、このまま学校に行くか、家に戻るか迷う。迷った末、重いブリーフを感じながら、絶望的な気持ちで家に帰った。家の鍵をガチャりと開けて、パンツを脱いでお尻を拭く。誰もいない家に、トイレットペーパーを巻きとる音が響く。

哀れだ。

なぜ、うんこ漏らしの後処理は、ああも哀れに感じてしまうのだろう。絶望的な気持ちになる。特に、重たいブリーフは、世界の終末の舞台のカーテンのように、重苦しい。うんこ漏らしは、絶望の所業である。

その後も、何故か5分の通学路の中間地点で、僕は漏らし続けた。決まって中間地点の小さな公園で、漏らし続けた。これはもう、逆セルフトイレトレーニングである。パブロフの犬のように、こちらの期待や想いとは裏腹に、2分半学校へ歩けばうんちが漏れる。もはやそういうギミックであるとしか言いようがない。うんこ漏らしギミック。

それでも、僕は成長する。同じ過ちを繰り返さないように、うんこを家のトイレで漏らしてから、登校するようになる。けれど、自分の肛門とさらに密接なコミュニケーションが取れるようになってくると、肛門の限界も知ることが出来るようになる。


あの日、ボクは肛門の限界を読み取った。大丈夫そうだ。微細な便意はあるものの、玄関の扉を開けた。

そして、通学路1分地点で、究極の便意が襲ってくる。

えっ、さっき大丈夫そうやったやん?なんでなん?!

いやぁ、思いのほか後ろがつかえてたみたいで、あっしにはどうしようもござらん。あとは、親方にお任せいたしやす。

いやいやいやいや、やばそうならもっと強めに信号だしてよ、ほんと困るよそういうの。

しかし親方、そうこうしているうちに、あっしの限界も近づいて来ておりやす。全力でせき止めますが、もう、97%くらい、力を出し切っております。残り3%でございます。

それ早く言えよクソが90%くらいで報告しろよクソが


小学校4年生の僕は、全力で走った。学校へ走った。走れば、3分位で到着する。僕は全力で走った。

中間地点の小さな公園が見えた。あそこを超えればもう半分だ。走ればあの公園から1分位で学校だ。

公園を全速力で通り抜ける。よし、学校の門が見えた。もう少しだ校門まであと100メートル。そして校門で肛門が破裂。走りながら漏らした。走りながらうんこは漏れる。


すいやせん、親方。すいやせん。

全速力とは打って変わって、怪我をした小動物のように、とぼとぼと家に帰る。

あれ、あんこちゃんどうしたと?忘れ物?

友達を無視して家に戻る。


混沌とした重いブリーフは、どんなランドセルよりも重い。我慢できなかった自分や、自分の便意とすらコミュニケーションが取れなかった自分を責める。

さっきまで体の中にあったのに、ブリーフで包まれた途端、忌々しい物体に様変わりする、うんち。トイレで用を足せば、快感すら覚えるはずのうんち。

僕ら人間は、必ずうんちを漏らす。僕ら人間だけが、うんちを漏らすのだ。動物達は、どこにいても、排泄をすればいい。けれども人間はそうはいかない。

プライドやマナーや礼儀や人としてとか友達の目線とか好きな子の言葉とか、うんこ漏らしとかっていうあだ名とか、いろいろ絡んでくる。だから、漏らす訳にはいかないのだ。

うんこ漏らしのギミックのあと、なぜだか清々しさを感じる時もあった。絶望の先には、ある種の寂寥感とともに、振り出しに戻ったような潔さがある。

絶望というけれど、望みが絶たれただけで、何かが終わったわけじゃない。望みがなくても、始める勇気さえあれば、また歩き出せるのだ。僕はうんちを漏らした。それは確かだ。そして今後も物理的うんちや、概念的うんちを社会で漏らして行くのかもしれない。何やってんだよおれ、クソだなぁ、と思うだろうけど、クソの先には寂寥と諦観の世界がある。

辛いことがあったら、絶望のブリーフを思い出せばいい。尻は拭けばいい。ブリーフは洗えばいい。ただ、うんちが出てくる場所が、便器かブリーフかの違いだけだ。大きなことじゃない。また、お尻を拭いて出直すんだ。

よっ!それでこそ、親方でこぜえます!



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