ノモリクヲノミカ ⑥の最後
「モモ、どういうことだよ…」
コウタがモモに問いかける。
けれどもモモは答えない。
その代わり、ハルカがにこやかにモモに声をかけた。
「独り占めにする必要はないよ。それは皆で見つけたものだ。皆にその権利がある」
けれども、やはりモモは答えなかった。
モモの意図がまったく掴めない。モモは、いったいどうしたいんだろう。
ぼくも、モモに声をかける。
「モモ、どういうことだよ」
すると、モモはテディベアを抱えたまま、空高く跳ね上がる。夜空にはモモのうさぎのシルエットがくっきりと見えた。
そのモモのそばを、大きな鳥が通り過ぎ、モモは、テディベアを、その大きな鳥に向かって放り投げてから、天守閣の上に着地した。
大きな鳥は、テディベアをキャッチして、送電線の上に片足で着地した。
ぼんやりとしか見えないけど、その姿は、鶴のように見える。
「あれって、ダレカ…じゃないか?おい!ダレカ!どういうつもりだよ!ふたりして!」
目を細めていたリョウが、声を荒らげた。モモと、ダレカは協力体制にあるらしい。だとすると、モモもハルカを止めるつもりなのかもしれない。
「みんな、もうここでやめたほうがいい」
ダレカが喋ると、
「え、ダレカ喋れるの?」
サキが少し飛び上がる。
「やめたほうがいいって、どういうことよ。ここまで頑張ってきたのに、二人でなにするつもりなのよ!」
ナオも声を荒らげると、天守閣のモモが口を開いた。
「みんな、ダレカの言う通りよ。
もうやめたほうがいい。ハルカがやろうとしてることは、あなた達が求めてることじゃない」
明らかに、いつものモモの喋り方や雰囲気とは違う。まるで別人のようだ。
「ハルカ、ちゃんと彼らに説明をしなさい。そのうえで彼らは鍵を手にするべきだわ」
モモは、ダレカの抱えるテディベアを見ながらそう言った。
ダレカが、テディベアを抱えたまま、ゆっくりと舞い降りると、そのすぐそばに、モモも飛び降りた。
ハルカはうっすらと笑みを浮かべながらダレカに向かって言った。
「今は、ダレカと呼ばれてるらしいね。じゃあダレカと呼ばせてもらうよ。ダレカ、なぜ、邪魔ばかりするんだい」
ダレカは毅然とした態度で言い放った。
「君を、止めるためだよ」
「止める?お前には無理だ」
「無理じゃない」
「どうするんだい?」
「現実世界でハルカを知る人物の前では、君は無意識よりも意識にエネルギーを使うことになる。
そうなれば、ここでの君の力は弱められる。
でも、現実世界には、僕らが元気だったころのことを覚えてくれている人は、ほぼいない。
けどさ、ユウだけは、僕らのことを忘れてはいなかった。僕と遊んだ子供の頃の思い出を、覚えてくれている友達だ。
ユウは、思い出のなかの僕たちに向けて、小説を書いてくれていた。だから、僕はユウを見つけることができた。
ユウがいれば、君は弱い。
だから僕はこうやって喋べれる」
「どうやって、ユウをここに入れたんだ?」
「僕は君の片割れだ。つまりはここの王だ。人をひとり招待するぐらい、王の僕にも出来る。見くびらないでくれ」
その答えに、ハルカは、表情を変えず、返事もしなかった。
ダレカは続ける。
「ハルカ。ユウがいれば、君のやろうとしていることを阻止できる。諦めろ」
ハルカは、呆れたように悲しみ溢れる顔をしてダレカに答えた。
「あのさ、ダレカ、君はぼくの話し相手ぐらいしかできないだろ?そして、自分は蚊帳の外みたいに、僕のこの事態をどうしようともしない。
ただのなんにもできない話し相手なんて、ぼくには必要ない。
ぼくに、君は、もう、必要ない。
邪魔するんだったらどこか別の世界で暮らしてくれ。もう君に邪魔をされるのは飽き飽きなんだよ」
「ハルカ、どういうことだ?邪魔?なんの話だ…」
「ああ。君は僕の邪魔をしてきた。千回や二千回って話じゃない」
「なんの話だよ…いつ君の邪魔をしたんだ…」
ハルカは、ピクニックに来たみたいに、ゆっくりとその場に座って一息ついた。
「なあ、ダレカ。僕だって、ここを出ていく子どもたちのように、暮らす権利がある。ダレカ、君は僕を止めるだけで、僕を助け出してはくれない。
ぼくは、ここに閉じ込められたままだ。
ぼくは、ここから出たい。
ほかのこどもたちとおなじように、ぼくはここをでていきたい。
でも、出られない。
だから、僕はひとりで、努力してきた。
お前はいつも僕を止めるだけだ。
じゃまを、するな、もう、出てくるなっ」
ハルカがそう言い終わると、ダレカのすぐ目の前に、赤黒く焼けた隕石が突然衝突した。ダレカは慌てて飛び上がり、自分の体ほどの大きさの石を避ける。
「ハルカ…なにを、なにを言ってる?ぼくを、殺すつもりなのか…」
「いや。殺すつもり、とかじゃない。すでに、ぼくは、もう、なんども、君を、殺してる。そしてやり直してきた」
ハルカは両手のポケットに手をいれたままダレカを見つめる。
そして眉をぴくりと動かすと、ダレカの元に、はるか上空から、隕石が落下し、地面に衝突する。
ダレカは飛び上がり、辛うじて赤黒い隕石を避ける。
「やめろ、ハルカ。やめてくれっ」
ダレカは、必死にハルカにそう言った。
ハルカは、必死にダレカにこう言った。
「ダレカ、お前こそ、もう、やめてくれ。おれの希望を、塗りつぶすな」
ダレカの上に、特大の隕石が落ちてきた。
ダレカは石に足を取られ、飛ぶことも避けることもできない。
僕はとっさにライトセーバーを引き抜いて、ダレカのそばに立ち、隕石を切り裂いた。
赤黒い隕石は2つに割れ、水色の地面にめり込んで衝突する。
土煙が上がり、ダレカとぼくを包む。
「ハルカ…どういうことだよ、千回とか、二千回っていうのは」
ぼくは肩で息をしながら、ハルカを睨んだ。
ハルカは、僕に向けて隕石を落とそうとしたけれど、気が変わったように、少しだけ深呼吸するようにして、ゆっくりと話しだした。
まるで昔話をはじめるみたいに。
「ここセオドアは、さまざまな世界へ通じる、通路の交差点のようなところだ。
ここから、さまざまな世界線へ行ける。いわゆる、パラレルワールドのような場所が、たくさんある。
僕は、元の世界に戻りたくて、さまざまな世界の入り口を開き、あちら側へ行ってみた。
その一つが、ミラーユニバースと言われる世界だ。
ミラーユニバースは、僕たちがいる元の世界とは、真逆に時間が流れている。
宇宙の終焉から、宇宙の始まりに向けて時間が流れているんだ。
僕は、そのミラーユニバースの入り口とセオドアの入り口を行き来しているうちに、あることに気づいたんだ。
2つの世界を行き来していると、時間を調節できるってことにね。
僕はミラーユニバースの時間軸と、セオドアの時間軸を混ぜて、ここで何度も同じ日を繰り返し、なんとか僕が帰る方法がないか、いろいろ試してみたんだ」
コウタが、深刻そうな顔をしてハルカに訊ねた。
「ミラーユニバース…聞いたことあるよ…でも、一体、何年くらい、それをやってたの…」
「ここには暦なんてない。回数がそこにあるだけだ。でもそんなの、数えるのはやめてしまったよ…」
「じゃあ、最後に数えたのは何回目の時?」
「ああ、それだけは覚えてる。数えるのをやめたのは、たしか、9万9000回目の時だ。10万回を前に、恐ろしくなった。失敗は、忘れることにしたんだ」
皆が息を呑んだ。
コウタが目を瞑り、小声で何が呟いている。
「99000回、ってことは、一日にすると、365だから、に…271年って、ことになる…数えてただけでも、270年以上は繰り返したってことだよね…」
「ああそうだよコウタ。何百年も、僕は繰り返してる。
なんとかして、あちらの世界に戻りたくてね。
でも…戻れない。
そこのダレカは、協力をしてくれないし、結局、一度も成功したことがない。目覚められないんだ。
だから、僕は、こっちの世界を、本当の世界にすると決めた。
ここにいる子どもたちを増やし、永住させる。
そうすれば、僕は寂しさを感じずに済む。そして君たちは、苦しみながら生きなくても済むんだ。
ミラーユニバースの力を使えば、僕たちは時間を繰り返せる。現実世界で時間が進んだとしても、ここで時間を繰り返せば、ずっと楽しく暮らせるんだよ」
270年。
その途方もない数字に、想像力は追い付かなかった。
でも、さっきダレカは、そんなことは一言も言っていなかった。
遥Aが王をたくさん作り、セオドアの現実に対する干渉力を強めたいというだけの話だったはずだ。
数百年も遥Aが時間を繰り返しているなんて初耳だ。ぼくはダレカを見た。
ダレカも、その話を聞くのは初耳だったらしく、驚いた顔をしている。
「おい、ハルカ…今の話は本当なの?ぼくと会わなくなってから、ずっとそうやってたの?」
ダレカはハルカにそう訊いた。
「ああ。そうだよ。その間、君はただ僕の間違いを指摘するだけのシステムだった。
いいかい、君はオリジナルじゃない。僕の独り言から産出された残像のようなもので、いわば君は、僕の残り滓みたいなものだ。もう止してくれ」
「ああ。そうかも知れないね。残り滓だろうが残像だろうが、なんだっていいよ。ハルカ、君がひとりで頑張ったのはわかる。それに、気づかずに、ほんとに、ごめん。
…けど…やっぱり、間違ってる」
「君に謝られても、どうということはない。そしてこれは僕だけじゃなく、皆が望んでいることだ。彼女たちの願いは、現実からの永久的避難。僕がそれを提供する。それが出来るのは僕だけだ」
モモが、ダレカとハルカの間に立ち、ハルカに向かって言った。
「ハルカ、あなたが一人で努力したのは、すばらしいことだと思うし、共感するわ。でもあなたは、子どもたちを、自分のために誘い込んだ。彼らをここに閉じ込めるなんて、そんなこと、させない」
「うるさいなぁ、モモ。君には僕たちの気持ちがわからないだろ?」
ハルカは突然、モモに向けて隕石を落とした。
モモは慌てて跳ね、隕石を避けたが、避けた先にダレカがいて、モモとダレカはぶつかって倒れた。
「ちょうだい!わたしにはそれが、必要なの!」
ナオは、ダレカが倒れた隙をついて、テディベアを掴んだ。ダレカは必死に足でテディベアを掴む。
「ナオ、落ち着いて!君は、わかってないんだ。痛みや恐怖から逃れても、そこにはなにもない。新しい痛みや恐怖があるだけだ!」
「そんなこと、やってみなきゃわかんないじゃないっ!」
「ここで王になれるのは、自意識の少ない赤ん坊か、僕らのように無意識界から迷い込んだものたちだけだ。
ナオが王になれば、僕らと同じ状況になってしまう。取り返しがつかないんだ!もし!あちら側の世界に戻りたくても、自分の意思では戻れなくなるんだよ?それでもいいのか!」
ナオは、必死に説明するダレカの話を聞きながら、テディベアをぐちゃぐちゃに揺さぶった。
「うるさいうるさいうるさい!!わたしのことなんにも知らないくせに、余計なこといわないでっ。わたしは、わたしには、友達がひとりもいない。同じ病気の友達は、友達になってすぐに死んじゃった!学校にも行けない!ひとりでいっつもドリルやってる!心臓の提供者をずっと待ってる!病気が発覚してからずーーーーーっと待ってる!
でも!小さい時から!毎日毎日待ってても!サンタさんや神様に頼んでも!ドナーは表れないの!
毎日毎日、目覚めるのも、眠るのも怖いの!ダレカ!あんたに何がわかるのよ!適当なこと云わないで!夜中に怖くて怖くて目覚めることがある?ダレカは目覚めたことも眠りにつくこともないんでしょ?だったら何がわかるの?わたしは嫌なの!怖いの!逃げたいの!なんで逃げちゃだめなの!邪魔しないでよ!」
ナオは、テディベアをひったくるようにして抱き抱え、そして大事そうに抱き締めた。
「待ちなよ、ナオ、まだ本当にハルカが言っていることが真実なのかどうかわからない!嘘かもしれない!早まらないほ」
ぼくがそうナオに声をかけると、彼女はその言葉をさらに遮り、うつむいたまま大声で言った。
「黙って。ユウ、あなたにわたしのことはわからない。わたしも、救われるなら、ハルカと同じように何度だって時間をやり直す。あなたには、わかんないんだよ。つらいひとたちの気持ちが」
ぼくも、周りの皆もナオの剣幕に押され、固唾を呑んでいる。
「さっきも言ったけど、私は引けないの。時間がないの。この人が言ってることが本当か嘘かなんて関係ない。私には、時間がない。選択肢がないの」
「じ、時間がないって、ナオ、でも、もし騙されていたら、もしハルカの言ってることが嘘で、もっとひどいことが起こるとしたら、一体、どうす」
「うるさい。あなたは私じゃない。当事者じゃない。脇から色々言わないで。大人みたいなこと、言わないでっ」
そう言ってナオが地面を大きく踏むと、あたりの小石や砂が、宙にゆっくりと浮いた。ナオの怒りで、その能力が発動しているようだ。
ハルカは目を細めて僕を見下ろしながらこう言った。
「ユウ、君は悪くないよ。でもまあ、ようするに、君は、教師失格ってことさ。一緒に冒険してきた仲間にさえ、信頼されない教師なら、やめちまえよ。さて、じゃあ他のみなはどうする?選んでいいんだよ?」
ハルカが他の三人を見つめていく。
三人は、さまざまなことを考えながらも、ハルカから目をそらした。
皆、王になればどのようなことが起こるのかを想像して、恐怖を感じているらしい。
ナオがしびれをきらして、声をあらげる。
「サキ、あなたはどうするのよ」
びくりとしたサキは、細々とした声で、しどろもどろに答えた。
「わ、わたし、お、うちに、わたしおうちに、帰る。か、帰りたい」
「は?何言ってんの。今さら。ふざけないでよ」
「わ、わたし、やだ、やっぱり、怖い。お母さんに、お父さんに…お姉ちゃんに会えなくなるの…怖い…やだ、わた、わたし、か、帰る!」
サキは耳をふさいでその場にうずくまった。
「ま、待ちなさいよ!落ち着いて考えなさいよ!いい?サキ?いままでじゃあなんで、頑張って来たのよ。あっちがいやなんでしょ?いやだから頑張ってきたんでしょうがっ」
「わ…わたし、変わってるってよく言われるから…わたしは、普通じゃないから、のろまで、馬鹿だから、誰にも必要とされていないのかもしれないって、だから、必要とされたくて、だから、みんなと冒険したくて…だから、わたし」
ナオは蔑むような目を、小さくなってうつむいているサキに向けた。
「は?そんなことぐらいで、ここまで来たの?馬鹿みたい。確かに馬鹿でのろまね。あんたなんか、べつにこっちに来なくていいわ」
ナオがそう言うと、サキはぼろぼろと泣き、震え始めた。それを見たリョウが、すかさずナオを諌めた。
「おい、ナオ、そんな言い方、ないだろっ」
すると、ナオは鋭い視線をリョウに向ける。
「言い方?事実じゃない?っていうかさ、リョウ、あんたは?あんたはどうするの?」
リョウは、そう言われ、ナオからハルカに向き直った。
「なあ、ハルカ、俺が王になれば、弟は、英二の足は、治るんだろうな?」
すると、ハルカは真顔でゆっくりと、言い返した。
「え?弟の足?治らないよ?」
リョウは一度後ずさり、そして食い下がった。
「で、でも、不死の秘薬だって!そう、言ったじゃないかっ!」
ハルカは立ち上がり、腰のストレッチをした。
「まあ、比喩というかね、そういう言い方になったってだけだよ。
とにかく、弟の足が治るとか、治らないとかではないんだ。
ぼくの目的はひとつ。苦しみを抱える子どもたちが、不安や恐怖に怯えずに暮らせる世界を作ること。未来を黒く塗りつぶされた子たちでも、ここにくればすべてを忘れて楽しめるんだ。君がもし、弟の足を治したいと思うんなら、その弟をここに連れてきて、王にすればいい。はい、それで解決」
ハルカは掛け算の九九をそらんじるみたいに、軽快にそう語った。
リョウは、黙り、うつむき、肩を震わせる。
「騙したなっ…」
「いや、騙してない。君の、ただの早とちりさ。現実世界に戻るんなら、そういう癖は直しておいたほうがいいよ。あ、とさ、リョウ、君が言ってること、嘘だよ。それ」
「う、そ?なにを言ってるんだ」
「だ、か、ら。全部嘘なんだよ、それ。弟の足を治したいってやつ」
「嘘じゃない。弟は生まれつき足が不自由で、それで俺は治してあげたいんだ」
「いやいやいや、それだよ。その願いのことだ。それが嘘なんだよ」
「願い?弟の足を治したいってこと?それの、なにが、嘘なんだ?おい、ふざけたことは寝て言えよ…」
リョウが、怒りにわなわなと震えながら、ハルカを睨み付けた。
ハルカは嬉しそうに笑う。
「ぼくは寝てるよ。そして君もね。ははは。
でもさあ、王に向かってその目付きと言葉遣いはいただけないなぁ。
ま、いいけど。どうせ君はもうここには来ないんだし。
リョウ、君は、弟の足を治したいんじゃない。君の願いは、弟のいない生活のはずだ」
「…な、なにを、ちが」
「違わないよ。僕は“繰り返し”のなかで、君には何度か会ってるんだ。そのうちの何回か、君はその本心を僕に吐露した。
弟がいなければ、父親も出ていかなかったはずだし、母親も働かなくて済んだ。
そしたら両親は君のことを第一に考えてくれるし、君は家事をしたり、ひとりで食事をしたり、今みたいにさ、真夜中まで、病院に行った母と弟を待たなくていい。
普通の、どこにでもある家庭の、普通の生活が送れるんだ。
君の、弟が、いなければ、ね。
君は表面上の、“弟の足を治す”という願いを述べているけど、でも本心は違う。リョウ、君の本心は、
“まま、もっとぼくをかまって”
“弟なんかいなきゃよかった”
なんだよ」
リョウが牙を向いてハルカに飛びかかった。
ハルカは、するりと身を翻す。
そして、リョウの背中に、上空からこぶしほどの大きさの隕石が衝突し、リョウは痛みに顔を歪め、暴れている。
「リョウ!」
ナオが思わずそう叫んで、リョウに駆け寄った。
「ち、ちかよるな…」
リョウは、力ない声で、ナオにそう言う。
ナオは、口を半開きのまま、力なく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
なにかが、吹っ切れたような顔だ。
「で、コウタはどうするの?」
ナオは放心した顔つきのままコウタをみると、彼はすぐに俯いた。
「ぼ、僕は、気が、変わったよ…僕も、帰りたい」
「コウタ、あんたも、どうせ大したことない悩みなんでしょ。
ほんとに、時間の無駄だった。あなたたちと過ごした時間。がっかりだよ。みんな」
「そうかもね…僕の悩みは、ナオの悩みに比べたら、ちっぽけでくだらない悩みだった…それより、…ナオ、大変だったんだね…」
ナオは、コウタのその言葉に、唇を一文字に結んで目をそらした。
うずくまるリョウの肩にモモが手を触れた。リョウは、嗚咽して、震えている。そのリョウを一瞥し、モモはハルカに強い視線を投げ掛ける。
「あなたも苦しんだとは思う。でも、人の苦しみがわかっていない」
「おや。まるで僕のことをとっても理解しているみたいな口ぶりだね。じゃあ訊くけどさ、モモ、お前に、僕のなにがわかるんだ?」
「わからないわ。だから、私があなたのことをわからないのと同じように、あなたも私のことや、彼らのこともわからないはずよ」
「モモ、僕は繰り返しで、君よりも長く生きてる。説教くさいことはやめてくれよ」
「説教じゃないわ。ハルカ、あなたは、人の心を、踏みにじりすぎてるわ。それは、ナイフで切りつけるのと、同じことよ」
「そんなこと言われても、わからないよ。ずっと一人でいたからね」
「あなたが長い間ひとりで苦しんだ、ということを加味しても、子どもたちに希望を抱かせ、そして彼らの心を踏みにじることは許される事柄じゃない」
「偉そうに。自由に何十年ものうのうと生きのびてきたお前に、なにがわかるんだよ、モモ」
モモは絶句した。
「なんで私のこと…ハルカ、あなた、私のこと、知ってるの?」
「ああ。知ってるよ。モモ、お前とも何度も会ってる」
モモは虚をつかれたように体の動きを止めた。
静寂の中、ナオが、一歩歩み出して、ハルカに言った。
「モモ、下がってて。もう邪魔しないで。私は、ここで、女王に、なりたいの。ハルカ、私は行く」
「ああ、もちろんさ」
ハルカがニンマリと笑うと、ダレカが、ナオの前に立ちはだかる。
「やめろ、ナオ」
「どいて。ダレカ」
「どかない」
「どいて」
ダレカは、ナオの顔を見ながら、背後のハルカに大声で言った。
「ハルカ。本当にいいのか。お前が苦しくて抜け出したかった世界に、この子を引きずり込んで、本当にいいのか?お前はそれを望んでいるのか?」
ハルカは、ダレカのその問いに、答えなかった。
「答えろ。ハルカ、お前はこのナオに、お前とおなじ苦しみを味あわせるのか?君は苦しくて、僕を生み出したんだろう?その世界に、この子を引きずり込」
ダレカの胸元に、鋭い角のようなものが生えた。
ダレカは驚いた顔をして、胸から生えた角を見下ろしている。
「ダレカ…だまれ」
ハルカが背後で小さく言った。その右手には、動物の黒い角のようなものが握られている。
そしてその角は、ダレカの背中から、胸へ抜けていた。
「がっ…かはっ…」
ダレカが、ナオの眼の前で倒れ込む。
ナオは、目の前でダレカが刺され、なにが起こっているのかわからないまま、笑ったような泣いたような顔をして、立ち尽くしてその震える瞳は、まっすぐハルカを、目撃していた。
ハルカは、蚊でも叩いたかのような、なんでもない顔をして、ナオに笑いかけた。
「さあ、ナオ、君の、のぞみを、叶えてあげるね。さあ、おいで」
ハルカが右手を差し出す。
しかしナオは、ハルカのその手をとらず、彼の目をまっすぐに見ながら、少しだけ首を振り、後ずさった。
ナオの抱き締めるテディベアが、水色の地面に落ちて、ダレカのそばに転がった。
「わた、わ、わたし…こんなことがしたいわけじゃ…ない…わたし…ちがう…いや、いやだああ、いやああああああああああああああ!!」
ナオは膝をつき、うつ伏せのダレカをゆすりながら、泣き叫んだ。
ハルカは、無表情ななままナオを見下ろしていたけれど、やがて震えだし、そして、大声で笑いだした。
「まただあああああああ。まただよぉおおお。まあああた、またまたまたまたやりなおし!何度やっても何度やっても、誰かが邪魔をする。みんなで僕を、不幸にしたがる!みいいんな!みんなで僕を!
僕ののぞみを、塗りつぶすんだよおおおおおおもしろいなあああああ!
もうやだよおおおおおうわははははあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ハルカの体から赤黒い煙がたちのぼり、その体が黒いヤギのようになってゆく。口は耳まで裂け、もはやなんと言っているのさえ聞こえない。
ぼくたちは、成すすべもなく、それを見つめていた。
ダレカがゆっくりと起き上がり、ナオの肩を掴み、遠くへ避難させる。ぼくたちは、そこへ駆け寄った。
ダレカは、苦しそうに喘いでいる。
「大丈夫か、ダレカ!」
リョウが声をかけると、ダレカは必死に声を絞り出した。
「あ、あれは、もう、ハルカじゃない…べつの、ものに、なりつつ、ある…」
ハルカは、両手を振り乱し、真っ赤な口を開け、笑いながら泣き叫んでいる。
ダレカは、ゆっくり、立ち上がった。
「みんな。僕は、みんなと出会えてよかっ、た。このままじゃ、ハルカが、そして、ぼくが、危ない。
いか、なきゃ…僕だって、あっちの世界に、もど、りたい、んだ。望みがあるなら、僕だって、頑張って、みせ、るよ。
…みんな、ハルカを、僕を、頼む。みんなも、無事でっ」
ダレカは、風のように、ハルカに飛びかかっていった。
「ダレカ!!!」
皆でダレカの名を叫ぶ。
ダレカは羽ばたき、ものすごい勢いで、ハルカに体当たりをした。
ハルカはその勢いを全身に受け、坂を転げ落ちるように、電灯やあじさいの木や金魚すくいの露店やステーキレストランや中華鍋や自動販売機やダンプカーを薙ぎ飛ばしながら、転がってゆく。
ダレカのからだが、ハルカにめり込んでゆき、ハルカの胸にダレカの羽が生えたようになり、やがてその羽も、すっかりハルカのなかに消えてしまった。
ダレカは、いなくなった。
ハルカに生えた角や、ヤギのような体は元に戻り、白いパーカーのハルカの姿になっている。
ぼろぼろになったハルカは、雑巾のように転がっていたけど、ゆっくりと起き上がり、膝をついてうつむいていた。
どうやら、心のなかで、ハルカとダレカの想いが、拮抗しているようだ。
頭を抱え、悩むその姿は、あきらかに、さっきまでのハルカとは雰囲気が違った。
柔らかな夜風が吹く。
星空が、静かに瞬く。
ナオが、ゆっくりと、つぶやいた。
「…せっかく、希望を持てたのに…ぜんぶ、無駄だったなぁ…みんなにもさ、最悪なこと言うし…わたし、最悪だなぁ…ひどいやつだ…もうやだよ…」
ナオの顔の前に、モモが座った。
ナオの頭を撫でる。
「私ね、妹がいたの。
髪の毛がさらさらで、おかっぱで、頬がりんごみたいに真っ赤で可愛くて、笑うと白い歯が、にかっと輝いて、とってもかわいい妹だった」
モモは、懐かしそうに笑う。
「でもね、私が七歳の時、妹は死んだ。四歳で死んだの」
「え、で、でも、モモは、四歳なんじゃ…」と、コウタがつぶやいた。
「不思議よね。私は今、4歳なのに、私は七歳だったなんて。長い話なのよ。
実は、私は、4歳じゃない。
本当は、89歳なの」
サキ、ナオ、コウタ、リョウ、そして僕は、目を見開いた。
「私はね、どうやら、痴呆症が進行しているらしくてね。ふとした時に子どもに戻るみたいねえ。それで、どうやら、私はここに、セオドアに迷い込んだらしいのよ。そしてね、私はね、ここで、妹に会えやしないかと思って、無意識に妹を探していたみたいなのよね」
僕はモモに問いかけた。
「妹を?探してるの?」
「そう。でも、たぶん、ここにはいないんだと思う。別の場所に、いるんだと、そう思う」
モモは空を見上げる。
そして、話し始める。
「みんなは知らないかもしれないけど、私が子供の頃、日本は戦争をしていたの。まるでね、バスがバス停に毎日同じ時間に止まるみたいにね、毎日毎日、爆弾が落とされていたわ。
お父さんは、とっくの昔に戦争に行って帰ってこなかった。
母と私と、弟と妹の四人で、いつも逃げ回ってた。
わたし、お母さんに言われたのよ。桃子、はぐれないように、あんたがさち子の手を握ってるのよ。って」
ナオが、少しだけ顔をあげる。
モモは、水色の地面を悲しそうに眺めている。
「でも、あの日、わたしは、離しちゃった。
爆風や熱風や人混みや炎に遮られて、いつの間にか、私は、さち子を離してしまったの。
翌朝ね、わたしは、黒焦げになった町を呆然と眺めてた。
さち子、さち子、って枯れた喉で叫んでも、町のどこからもさち子の返事はなかった」
モモは悲しそうに目を伏せる。
僕たちはだれも、言葉を挟むことができなかった。
「…妹はね、さち子は、戻ってはこなかった。それだけが事実なの。不平等よ。不公平よ。不条理よ。わたしは、理解なんてできなかった。
なんどもなんどもその日の夢を見る。なんどもなんども悲しんでも、悲しみはぜんっぜん、なくならない。」
そして、ナオの方を向き直って言葉を続けた。
「だからね、私は、命が、世の中が、平等だなんて、少しも思わない。なかなかどうして、不平等なものなのよ。ナオちゃん、だからね、」
モモは、ナオに抱きついた。
「まだ、希望が完全になくなったわけじゃない。毎日怖いけれど、希望を捨てちゃだめ。
ねえ、ナオ、わたし、若い時にね、フラダンスを習っていたことがあるのよ。ハワイにも何度か行った。素敵なところよ。
ねえ、ハワイにも、ナオって言葉があるのよ。知ってる?
ナオは、ハワイの女の子にもつけられる名前なの。
その意味は、“さざ波”。
豊かで深く静かな海のように、優しくおおらかに育ってね、という意味が込められてるって。
ナオ、だからあのね、あなたのなかの、大波に、飲み込まれないで」
ナオは、ぽろぽろと涙をこぼした。
「わ、わたし、みんなにも、モモにも、ひどいこと言った…」
するとすぐに、モモは笑う。
「生きてりゃ、そんなこと、言っちゃうし、言われちゃうものなの。あなたが気になるなら、心のそこから謝ればいい。ね、みんな、ね」
モモが振り返ると、コウタが頷き、サキが俯いて頷き、最後にゆっくりとリョウが頷き、僕も頷いた。
ナオは、大声で泣き出した。
ハルカは、膝と両手をついて、水色に汚れ、うつむいている。
モモは、ハルカに歩み寄り、ゆっくりと声をかけた。
「ねえ、ハルカ、あなた、本当は……目覚めることが、できるのよね?知ってるのよね?」
ハルカは、答えない。
モモは続ける。
「目覚めても、たったひとりだから、恐ろしいから、あなたは、目覚めないんでしょ?」
ハルカは答えない。
けれど、ハルカのうつむいた顔の下が雫で濡れ、濃い蒼色に変わってゆく。
「ハルカ。本当は、知ってるはず。あなたは目覚められる。でも怖いから、目覚めずに済む方法で、ここを選んだ。そして、彼らを利用しようとした」
蒼色の雫の範囲が、一気に広くなり、ハルカは肩を震わせ、地面を拳で何度も叩き、大声をあげた。
「あああだああばあああああああああだあああああいやだああああああばあああああああああああああああああああああああだばああああああああああ」
ひとりは寂しい。ひとりは怖い。ひとりは恐ろしい。だからひとはうそもつくし、ひとをりようするし、だます。
そして、じぶんじしんもだます。
「ハルカ!ぼくがいる!」
ぼくは、思わず叫んだ。
「ハルカ!!僕も!」
コウタも叫ぶ。
「俺もだ!」
リョウも叫ぶ。
「わたしも!いる!」
サキも叫ぶ。
最後に、ナオがちいさく言った。
「うん。ハルカ、わたしも、いるよ」
ハルカが、肩を震わせ、小声で言った。
「なあ、みんな、…みんな、ごめん…ごめん、みんな…」
みなが、思い思いの表情で、ハルカを見下ろしていた。
ハルカは、ひとりでここで、ずっとなにかと戦っていた。そしてここにいるみなも、なにかと戦っている。戦う相手はそれぞれ違うけれど、みな、さまざまな想いを抱えながら、ハルカを見下ろしていた。
「僕、頑張ってみるよ…」
ハルカは、顔をあげた。
すると、突然ナオが苦しみ始めた。
胸を押さえ、のたうち回る。
ぼくたちは慌て、ナオを取り囲んだ。
「どうしたナオ!」
「ナオちゃん!大丈夫?」
「ナオ!」
ぼくたちが名を呼んでも、ナオはのたうち回るばかりで、目も合わせず返事もしなかった。
「だめよ!聞こえてない!彼女自身はもう、自分の制御ができてない!」
モモがそう叫んだ。
ハルカが、立ち上がって言った。
「ナオが、あぶない。セオドアの出口から出ないと、ナオは二度と目覚めくなる。僕は、何度も経験があるんだ。セオドアで、そういう症状になる子は、その苦しみが終わる前にセオドアを出ないと、魂そのものが、ここにとどまることになる。下に咲いていた花たちが、みんなそうだ。
ナオは、自力ではセオドアを出られない。君たちで、セオドアの出口までつれて行くんだ。ほら、あの山の中腹に、金色の扉が見えるだろう。あれがもとの世界へ戻すための扉だ。」
この門の上から見える黒々とした山の中腹に、金色の一番星のようなものが輝いているのが見えた。あそこが出口なのか。一刻も早く、ナオをつれていかなきゃ。
その時、星空に真っ黒な亀裂が入った。
その亀裂は、みるみる大きくなり、うす黒い触手のようなものを出して、黒い塵のようなものを、その先からたくさん吸い込み始めた。
「なにあれ!」
サキが恐れおののいて叫ぶ。
ハルカは一度驚いた顔をしたようにしてから、観念したような悔しそうな顔をした。
「あれは、ミラーユニバースの…ゲートだ。…おそらく、時間の…歪みを、取り戻そうとしてる…」
ハルカがつぶやいた。
みな、漆黒に染まりゆく空を見上げ、ナオは苦しそうに叫ぶ。
「時空をなんども歪めた皺寄せが来た。ぼくが、なんとかしなきゃ…。
みんな、早く現実に戻って。ナオを、なんとかして救って!」
ハルカがそう言うと、リョウがハルカに詰め寄った。
「残るって…ここにいたら、どうなるんだよ…」
「どの世界でも同価値のもの。それはお金でも時間でもない、命だ。
あの亀裂は、命を探してる。
僕が利用した時間と引き換えに、命を探している。僕は、自分だけ、ずるをしようとしたんだ。
罰は受けるよ。さ、早く!」
「いまならまだ間に合う!ハルカ、行こう!ナオを連れ出さないと!」
ぼくは、ハルカの手を握った。
ハルカは、優しく笑ってから、ゆっくりと首を横に振る。
「ユウ、ありがとう。でも、これは僕が招いたことだ。
ほら、みんな、行ってくれ。早くしないと、ナオだけじゃなくて、みんなも帰れなくなる」
「いいから、一緒に早く逃げるぞ!ハルカ!」
リョウが叫ぶ。
「そうだよ、行こうよっ」
コウタが必死に訴える。
ハルカは、涙を流して笑う。
「もう、これ以上、悪いことは重ねたくない。君たちまで巻き添えにしてしまったら、僕はもう…。
だから頼む。頼むから、僕から離れてくれ」
ハルカはわなわなと震え、膝をつき、寒さに震えるように、自分の体を抱き締めて嗚咽した。
「ハルカ、逃げよう」
それでも僕はハルカに近づき、立たせようとしたけれど、その前に、モモが立ちはだかった。
「ユウ。だめよ」
ぼくは眉をひそめ、首をかしげた。
「彼は責を負わなきゃだめ。このままハルカが、逃げてしまえば何も知らないセオドアの子の生命が奪われることになる。そうでしょ、ハルカ」
「うん。そうだ。まったく無関係の子供が、命を奪われることになる」
ぼくも含め、みなが、体を硬直させた。
ナオは、相変わらず苦しんでいる。
モモが、ゆっくりとハルカに問いかける。
「他に止める方法は、ないの?」
ハルカは声を荒げる。
「ない。だから早く、みんな、ナオをつれて逃げて!」
ハルカは、声を荒らげたけれど、体はぶるぶると震えていた。
それを見て、モモが静かな口調で言った。
「ハルカ、ひとりで行くのが怖いなら、私がついていく。さあ、中のダレカ、聞こえるでしょう?早く、その翼を広げなさい」
ハルカがゆっくりと頷く。
ハルカの背中から、鶴の翼が大きく広がった。そうして、モモは、ハルカの背に乗る。
「わたしは、ハルカを見届けてくる。みんなは、ここを抜け出す準備をしてて。それと、みんな、ナオが目覚めたとき、お願いね。みんな、頼むわね。
さあ、行くわよ、ハルカ!」
モモはニコリと笑って、ナオを優しそうに見つめた。
「みんな、ごめん。ユウ、会えて、よかった。みんな、ナオを頼む」
ハルカは、そう言って、大きな羽を羽ばたかせた。
みるみるうちに、モモとハルカは小さくなってゆく。
近くに近寄れば近寄るほど、ミラーユニバースの黒い亀裂から漏れる、ごうごうという音が大きくなってゆく。その裂け目からは、触手のような竜巻が幾重にも伸びて、命を探している。
漆黒へ向けて羽ばたくハルカに、モモが声をかける。
「ハルカ」
「なんだい」
「何百年も、大変だったわね」
「とにかく、出たい一心だったんだ…でも、それがこれを招いた。それに、モモ、ひどいことを言って、すまなった」
「ハルカ、わたしはね、妹の手を離してしまったこと、心の底から悔いてる。
89歳の今でも、悔しくて苦しくて、たまらない。
だから、わたしは、出会う人たちを、妹だと、そう思って生きてきた」
ミラーユニバースの亀裂が目の前まで迫って来た。
すると、モモは、ハルカの背に乗ったまま、思い切りハルカの背を蹴り、跳ねた。
ハルカはバランスを崩しながら、モモを見上げる。
「モモ!何を!」
「ハルカ、せめてあなたを、助けさせて」
モモは、ハルカを見下ろして、笑った。
そして、亀裂の中に着地し、その端と端に、手をかける。
「ハルカ、いきなさい」
ごうごうという音が突然消えたかと思うと、
あたりには爽やかな夏空が広がった。
黒い亀裂も、触手のような竜巻も、
そして、モモの姿もどこにもなかった。
ハルカは、モモの名前を叫ぶ。
青空の中を、ハルカが、ゆっくりと雪のように、ふわりと地面に舞い落ちた。
みな、唖然として、亀裂があった場所を眺めたが、そこには美しい空しか見当たらない。ハルカは、俯いたまままったく動かなかった。
モモは、ハルカを救って、亀裂の向こう側に消えた。
つまり、モモは、ハルカの代わりに命を差し出したということだ。
「うぐわああいぐあわああがあああああ」
ナオが胸を押さえ、苦しそうに体を反らし、折り、のたうつ。
ハルカが、立ち上がる。
「ナオを、救う。僕も、一緒に行く」
「でも、あんな遠くにどうやって行くんだよ。間に合うのか?」
僕がハルカに訊くと、ハルカはうつむいたまま答えた。
「僕はまだ、王だ。簡単なことさ」
ハルカが山の方に向けて手をかざすと、金色の光からこの門の上まで、灰色の帯が出現し、繋がった。
よく見ると、中央には白線が引かれている。
どうやら、高速道路のようだった。
そして目の前に、青色の乗用車が一台、出現している。
「みんな、乗って…」
ハルカは車を見ないまま、つぶやいた。
リョウとぼくで、ナオの体を支え、後部座席にナオを横たえた。
リョウと、コウタとサキは、ナオと一緒に後部座席に乗り、ぼくは運転席に乗り込んだ。
ハルカは、車に背を向けたまま、動こうとしない。
「どうした!ハルカ!急がないと!」
ぼくがそう言うと、リョウもハルカを急かした。
「早く!ナオが危ない!」
ナオの苦しみは次第に増してゆき、叫び声や暴れ方は、どんどんひどくなってゆき、車もその動きで揺れている。
「早く!」
サキが叫ぶ。
「急いで!」
コウタが叫ぶ。
ハルカは、わなわなと震え、泣きながら振り向き、膝を震わせながらゆっくりもこちらへ歩いて来た。そして、震える指先で助手席を開け、泣き叫びながら、助手席に乗った。
ぼくは、ダレカが前に言っていたことを思い出した。
たしか、ハルカは交通事故で意識不明になり、そして両親を失っている。
ハルカにとっては、現実世界と無意識世界を分けているのが、この車なのだろう。自分の世界や両親の命を奪った車。だから、現実世界に戻るためには、事故にあった車に乗り、戻る必要があるのかもしれない。
ぼくは、ハルカのシートベルトを締めてあげた。
「ハルカ。大丈夫だ。安心して」
ハルカは震えながら黙ってうなずく。
「ユウ!ナオが消える!やばい!」
バックミラーを見ると、ナオの体が薄くなり、後部座席が透けて見えた。
サキ、コウタ、リョウは、ナオの名を叫び、体をゆすり、さすっている。
ぼくは、車のエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。
ハルカが、泣き叫び、シートベルトを握りしめた。
いったい、時速何キロの速度で走っているんだろう。
滑るように車は進み、車の揺れは少なく、エンジン音は静かだった。
ただ車内では、三人がナオの名を何度も何度も叫び、ハルカがシートベルトを握りしめ、助手席の上で小さく丸まりながら、泣き叫んでいる。
徐々に、金色の光が近づいてくる。
山が大きくなってくる。
ぼくたちは、山の影に飲み込まれ、金色の光に包まれる。
三人が、ハルカの泣き叫ぶ声の中、友の名を必死に叫ぶ。
まばゆい光が、ぼくらをつつんだ。
視界のすべてが金色だった。
まるで、朝露をまとう蕾がゆっくりと開くように瞳が開き、そしてその瞳がまっすぐに、ぼくを見据えた。
「奈央…ぼくがわかる?」
ぼくは奈央を驚かさないように、できるだけ優しく声をかけた。
するとすぐに奈央はこう言った。
「ユウ、無事だったんだね」
「うん。大丈夫か?」
「うん…みんなは?」
「うん。大丈夫だよ」
「そっか…あ、あのさ…」
「どうした?」
「ダレカは…ハルカは…どうなった、の?」
「うん…あいつは、まだ、眠ってる」
「セオドアからは、出られたの?」
「わかんない」
「そっか…じゃあ、ハルカは、あっちに残ったって、こと…」
「わかんない。眠ったまま…だから」
奈央は、点滴につながれた自分の白い手を、夕暮れの小川をぼおっと眺めるように見つめている。そして奈央は、自分の入院着の隙間から見えている胸のガーゼを触った。
「え…わたし、胸の、手術してる…」
「うん。奈央は、心臓の手術をした。そして、成功した。あ、今から看護師さんを呼ぶね」
「ドナーが、見つかったの?」
「…うん。でも、そういうのは、ちゃんとお医者さんから話を」
「じゃあ教えて。モモは……?」
僕は聞こえないふりをして、ナースコールに手を伸ばす。その手を奈央の細い手が遮り、強く握った。
「ユウ、教えて」
ぼくはうつむいた。
「なに?なんなの?!」
奈央はそう叫んで、痛そうに胸を押さえた。傷口が開いたのかもしれない。
ぼくがとっさに身を乗り出すと、すぐに、大丈夫と、奈央は答えた。
「…ねえ、ユウ、モモは?」
ぼくはその質問に対して、もう嘘がつけないと、そう思った。そしてつい、
「うん。そうだよ」
と答えてしまった。
「うん、そうだよって、どういうこと…」
「ちゃんと、奈央のご両親と、先生と話をして、そし」
「もしかして、わたしの、心臓って、ドナーって、ねえ、悠…そう、なの?」
「…だから、それは、」
「言えないってことは、そうじゃんっ。言えないってことは、肯定してるってことじゃん…」
「いや、だからさ…」
「なんで?なんでモモは私なんかのために?」
「いや、なんでって、そんなの、ぼくにはわかんないよ」
「わかるよっ。わかってよっ。わかるに決まってるじゃんっ。悠は大人でしょ?大人なら教えてよっ」
「大人でもわかんないよ。それに、もう聞けない」
「…そ、んな、言い方、そんな言い方ないじゃん!ねえ!なんで?なんでなの?ねえ!」
奈央は僕にしがみつくようにしながら、何度もそう言った。僕は、何も答えられなかったし、なにか言うべきでもないと思った。
そして、奈央は、悔しそうに呟いた。
「わたし、最低かよ…。みんなに、ひどいこと言って、モモにも、ひどいこと言ったのにさ、助けてもらってさ、最低じゃん…やだよ…わたし…やだ」
「僕は、そうは思わないよ」
病室に、眼鏡をかけた少年が入ってきた。身なりがきっちりしていて、利発そうな顔つきをしている。
その後ろには、同じく利発そうな顔つきの好青年が立っていて、ぼくに会釈をした。ぼくが会釈を返すと、彼は廊下の奥へ去って行く。
「コウタ…」
眼鏡の少年を見て、奈央がそう呟いた。
「うん。皓太だよ」
本人はゆっくりとそう答え、ぼくのすぐ隣、奈央の目の前まで歩み寄ってきた。
「僕はさ、いままで、自分のことで一生懸命になれたことがなかった。親に認められたくて、ただずっと勉強を頑張ってきただけだった。でも親はぼくより、会社や仕事のことが大好きみたい。だからさ、セオドアにいて、ゲームみたいに時間が過ごせれば、それでよかった。
ぼくは、奈央みたいに大きな問題や悲しみを抱えているわけじゃない。でもね、僕は心を捨てたかったんだ。機械みたいに、なりたかったんだ。感じなくて、すむから。
だからさ、あの日、奈央を見て、驚いたんだ。
同じ子どものはずなのに、ちょっとしか年は変わらないはずなのに、自分のために、奈央は頑張ってた。なんていうか、主張、してた。
僕は心なんて、いらないって思ってた。なんにも感じたくないし、頑張りたくないって、そう思ってた。
けど、でもなんか、なんだか言葉にはうまくできないけど、奈央を見てさ、僕たちは、光に向けて足掻くとってもちいさな存在なんだって思ったんだ。
だから、僕も足掻けるだけ足掻こうと思った。奈央は、それを教えてくれた。
奈央は、最低じゃない。
僕は、そう思う。
まあ、ちょっとは、傷ついた、けどね」
皓太は頭を掻きながら、少しだけ笑った。
するとまた、病室の入り口に誰かの立つ気配がした。
「俺も、まあまあ癪に障ることを言われたかな」
そこには、スポーツ少年というような風貌の子が、照れたような笑みを湛えて立っている。
「リョウ…皓太…ほんとにごめん…みんなも、ごめん…」
遼は、病室の入り口に立ったまま、奈央に声をかける。
「もちろん、気にするなってわけにはいかないんだろうけど、でも、これはモモが選んだことでもあると思う。
俺は、ちょっぴりモモの気持ちはわかるんだ。弟の足を治せるんだったら、できるだけのことをしたい。だから、俺はセオドアに入れたんだと思う。
モモはさ、何年も何年も、妹さんに対しての想いがあって、セオドアで妹さんを探していたんだろうと思う。でも、妹さんはいなかった。
だから、その、モモは、モモが、その、これを選んだんだ」
遼がそう言うと、奈央はゆっくりと唇を噛み締める。自分の命が他の命の終わりをもって賄われているその事実に、ひとりの少女が思いを巡らせている。
ぼくらは皆で、静かな病室の床を見つめながら、点滴の落ちる音を聴く。
すると、遼の後ろに隠れるように立っていた、背の低い眼鏡の女の子が顔を出した。
「奈央…わたしだよ…」
「…サキ、あのときは、ほんとに、ごめん」
奈央がそう言うと、早希は、ゆっくりと首を横に振り、そのちいさな手で、奈央の白い手を握った。
「つらいかもしれないけど、奈央は、大丈夫。だって奈央は、いままでずっとひとりで、弱音を吐かずに頑張ってたんだよ。あの姿を見て、わたしはそう思った。もう、耐えられなかったんだって。
でもね、今はね、私たちもいる。
だから、ね、奈央は、大丈夫だから。
ね、奈央。大丈夫だよ。奈央」
早希は奈央を見上げながら、その手を強く握った。
奈央は、胸のガーゼを押さえ、大きな口を開け、大きな声を出し、早希の手を握ったまま、ぽろぽろと白いシーツを濡らした。
ぼくは、そっとナースコールを押す。
しばらくすると、看護師の女性が病室に入ってきた。
「奈央ちゃん、よかったわ。意識戻ったのね、ちょっとまっててね、あ、先生、林田です、はい、今病室です。はい、意識が戻りました。すぐお願いします」
看護師の女性は、すぐにスマホで専属の医師へ連絡を取った。
そして奈央のそばに歩み寄り、
「奈央ちゃん、なにか変な感じなとことかない?痛みとかないかな」
と言った。
奈央が首を横に振ると、林田という看護師は、脈をとったり、点滴の残りをチェックしたりした。
そして点滴のそばに立っていた早希を見つけて言った。
「え、早希、あなた、ここでなにしてるの?」
ぼくらは林田さんと早希を見た。
早希はゆっくりと答える。
「奈央ちゃんと、友達なの」
「え?そうなの?初めて聞いたけど。え、奈央ちゃん、早希と友達だったの?病院で出会ったの?」
奈央は、わけがわからないというように首をかしげて不思議そうな顔をしている。早希と自分の担当の看護師が、知り合いだというのは奇遇だ。
「えっと、はい。早希とは、友達ですけど…でも林田さん、なんで早希のこと知ってるんですか?」
すると林田さんは驚きながら笑って答えた。
「知ってるもなにも、早希は私の娘よ。へぇ、あ、わかった。ふたりは、1Fの本屋さんで出会ったんでしょ?」
奈央と早希は、あいまいに頷いた。
林田さんは、遼と皓太の方を見る。
「あれ、君は、たしか英二君の、お兄ちゃんの…」
「はい。遼です」
「そうそう。遼君よね。遼君も奈央ちゃんと友達なの?早希とも?あらほんとに奇遇ね」
林田さんは、感心したような、腑に落ちないような不思議な顔をして何度か頷いて、ぼくの方へ向き直った。
この中では唯一の大人のぼく。
「あの、ご親戚の方とかですか?」
「いえ、親戚とかではないんです」
「あ、じゃあ、担任の先生とか?そちらの僕は、お子さんですか?」
林田さんは皓太の方を手のひらで指し示してそう訊いた。
「あ、まあ、はい、いや、皓太は、ぼくの子どもではないです。それであの、奈央の担任じゃないんですけど、なんというかまあ、市内の別の小学校で教師をしているんですけど、奈央の担任というわけではなくて、その、まあ、教師をしてます。あ、あと、ぼく、この病院に入院してる、ウツミハルカの同級生です」
林田さんは、さらにわけがわからないというような微妙な笑顔をつくってから相づちを適当にうった。
ぼくがしどろもどろしていると、奈央と早希と遼と皓太が声を揃えて答えた。
「悠は、友達です」
林田さんは、不思議そうな顔をして、はぁ、そ、そうなのね、へぇ、と返事をした。
奈央が、ほんの少しだけ、笑ったのが見えた。
林田さんが窓を小さく開けた。
カーテンが、揺れた。
両親も医師も苦渋の決断だった。
奈央は数日前、睡眠中に突然苦しみだし、医師が診断すると、先天性の心臓の疾患が、修復不可能なまでに進行していて、心臓のすべての弁が破れてしまっていたらしい。
医師はすぐに弁をすべて縫い合わせる手術にとりかかったが、成功する見込みは低かった。
そこへ、心臓提供できるというドナーの連絡が入る。
偶然にも同じ病院で亡くなった女性と、血液型が一致していたのだ。
そして、その女性は若い頃に、ドナー登録をしていたらしい。
しかし、問題があった。その女性は89歳と、高齢だったのだ。
通常、心臓移植では50歳くらいまでの心臓を提供することが望ましいとされている。
奈央に意識が戻らないまま、医師と両親は、何度も話合い、悩み、心臓移植の手術を決行した。
そして、奈央は目覚めたのだ。
「奈央、久しぶりだね」
「あ、悠、久しぶり」
「うん、久しぶり。大人になったな、なんか、色っぽいよ、奈央」
「え?そういうのってセクハラだよ?かんっぺきにおじさんじゃん、それって」
「再会して数秒でおじさんって言うのさ、ささやかに傷つくからやめてくんない?」
「事実なんだからしょうがないでしょ」
街を見下ろせる丘の上、風を浴びながら、ぼくと奈央は話している。
「ほんとに、元気そうでよかったなあ、奈央」
「毎年会ってるんだからさ。そんなおじいちゃんみたいなこと言わないでよ。ったく。あ、悠は、まだ学校の先生やってるの?」
「うん。続けさせてもらってるよ。奈央は?」
「あ、わたし?わたしは大学に通いながら、友だちと二人で会社始めたの」
「え?会社?!」
「え?そんなに驚くこと?やっぱりおじさんだなあ。あのさ、今は会社作るのなんて普通だよ?バイトの面接に行くみたいにみんな会社つくってる。高校生も中学生でもやってる子はいるんだからね?ほんとによくそれで先生がつとまるなあ」
「あのさ、さっきからちょいちょい傷つけてくるよね、奈央」
そうやって二人で笑っていると、後ろから声をかけられた。
「おっ、おふたりさんはお先にお着きでしたか。相変わらず楽しそうで。どうも、お久しぶり」
ネイビーの詰め襟の制服を着た、眼鏡の少年だ。
「皓太。また背が大きくなったね」
奈央が振り向きざまに髪の毛を耳にかけ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「うん。久しぶり、奈央、悠」
皓太はにこやかに笑う。
「皓太も元気そうでなにより。今は、えっとぉ、何歳になった?」
ぼくが訊ねると、皓太はすぐに返答した。
「16歳と3ヶ月」
「早いなぁ、あの皓太がこんなに大きくなったかぁ」
ぼくがそう言って皓太の頭を撫でると、皓太は片頬で笑いながら、
「いやぁ、おじさんみたいだな、悠」
と言った。奈央が皓太を指差しながら、
「だよね」
と、同調する。
そして三人でまた笑った。
「なに、宴会でもやってんの?成人組は酒が飲めていいねぇ」
低い声で後ろからそう声をかけてきたのは遼だ。黒い詰め襟で背が高く、体つきもたくましい。
その後ろにはボブに眼鏡をかけた、セーラー服の少女がいる。
皓太が遼に返事をした。
「いや、俺は16歳と3ヶ月だから。飲めないから」
その返事に遼は少し笑い、
「そんなことは知ってるよ。あ、駅で早希と会ったから一緒に来たよ。どうだ、べっぴんさんだろ」
と、後ろのセーラー服の少女を皆に紹介するように体をよけた。
「え、こっちにもおじさんみたいなやつがいんじゃんっ」
奈央が笑いながら言うと、みんなでどっと笑った。
「奈央ちゃんも、みんなも元気そうだね。よかった」
早希が恥ずかしそうにそう言う。
あれから、皆で毎年こうやって集まっている。この丘の上からは街が見渡せて、あの病院も、木々にに少し隠れてはいるけれど、少しだけ見ることができる。
ぼくたちは、毎年同じ日、この丘へやってくる。
あれから7年経つ。
桶に水を汲み、石に注ぐ。
早希や皓太や遼が、四角い石を磨く。
奈央が持参した花を、その石の前にそっと飾る。
誰も、手を合わせたりはしない。
それぞれが、心のなかで、対話している。
石のそばの木が柔らかく揺れ、枝葉が、日差しが、きらきらとさざめく。
皓太が口を開いた。
「あ、そういえば、みんな知ってた?セオドアってさ、欧米だと男性の名前にも使われるんだ。でさ、日本語の名前にも意味があるように、セオドアっていう名前にも、意味があるんだ。知りたい?」
すると、早希が自信たっぷりの顔で答えた。
「あ、それ、私、知ってるよ」
「え、なになに、知りたいっ」
奈央が身を乗り出し、早希が答える。
「セオドア、神の贈り物って意味なんだってさ」
すると、皓太が唇を少し突き出し、悔しそうな顔をする。
ぼくも奈央も、遼もそのことを知らなかったので、へぇー、というように何度も頷いた。
そして、奈央が街を眺めたまま、話し始めた。
「全部が、贈り物なんだね。
わたしのあの日々も、今思えばさ、とても心細くてつらくて暗い日々だったけど、あれも贈り物なんだ。
どんなにつらくても、思い出と名付けてしまえばさ、全部包み紙で包まれた贈り物になる。私は、そう思う。今となってみれば、だけどね…。
あ、でも、ここだけは、」
奈央は胸を両手で大事そうに押さえた。
「この心臓だけは、思い出じゃ、ない。今なの」
皆で四角い石を見た。そして、遠くの空を見る。
「俺たちのこの関係も、そうなのかも。今が、全部が、贈り物だよな」
遼が、だれにともなくそう言った。
みな、それぞれ頷いた。
ぼくたちは黙ったまま、風が草を撫で、街へと駆け下りてゆくのを、見て、聴いて、感じていた。
すると、背後から草を踏む足音が近づいてくる。
「みんな、遅れて、ごめん。
まださ、坂道とかにはさ、慣れなくてさ」
声に気づいた皓太が、振り向かずに言う。
「ったく。また今年も遅刻?寝坊?」
ぼくたちはその言葉に、笑顔で、振り返った。
そこには、ひとりの青年が立っている。
彼は、小動物のように愛くるしく、そして優しそうな目で、笑っていた。