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祖父が植えた梅を、僕は蹴り倒したから。

数年ぶりに福岡空港に降り立つと、到着ロビーには母や、妹や、甥や姪が立っていた。まだ幼い姪たちは、僕の顔を見たことも触れたことも食べたこともないので、ジャングルの中で不思議な動きをする鳥を見るような目で、僕をじっと見あげている。

僕も、北欧のトナカイが雪の中から木の実や苔を巧みに見つけ出して熱心に食べる様子を観察するように、初めて会う姪たちのその黒目を興味深く見つめ返す。すると姪たちは、菫が春風に揺れるみたいに小さく笑った。



元気に歩き回り、そして友達の多かった祖母も蝸牛のごとくゆっくりと年をとってゆく。夫や仲間を亡くし、足が痛み始め、人生初の入退院を経験し、やがて出歩くことが減った。

そんな祖母の発案で、土地や家屋を含めた遺産をどうするのか、いわゆる遺産相続の話し合いの場を持つこととなった。

そんなわけで、僕は妹の運転する車に揺られ、空港から実家へ続く故郷の町並みを眺めているわけだ。

主な遺産相続対象は、祖母と同居している母。結婚し外に出ている、おば。仕事で遠方に住んでいる僕。既婚で5人の子持ち、すでに家がある妹の四人。

関係親族全員で大分の別府温泉へ行き、温泉や温水プールや食事を満喫し、そして子どもたちの寝静まった真夜中に、やっとその話し合いが始まった。

祖母は、祖父が働き抜いて守り抜いた土地と家を存続してほしい思いがあった。しかし、土地と家は遺産相続において親族が揉める一大要因だから、親族が仲違いするのであれば、家を壊し、売却するという手もある。家を資産として考え、金銭として分配するのか、家族が集まる場として保存していくのか。保存するのであればその主を、家族全員が僕にやって欲しいらしいのだけれど、そうなれば故郷とはいえ職場も交友関係もすべてが変わる。そう簡単に、うん、いいですよ、とは答えられない。

そうやってさまざまなことを、感情的に、論理的に意見を交えていく中で、話は思わぬ展開を見せることとなった。


祖父は几帳面で、物や家を大事にする人であった。いつも家や庭の掃除や修繕、草むしりに勤しみ、誰にも頼まれていないのに、近所の空き地に巣食ったスズメバチの巣を一人で回収し退治するほど、“環境”に対して几帳面だった。

けれどもその祖父が亡くなり、祖父の遺品に溢れた家に住む祖母と母は、同じ思いにかられながら生活することになる。

“父(夫)のものが捨てられない” のだ。

祖父が生きていたときの痕跡をそのままにして、もう十数年が経とうとしているが、洗面所には、祖父が使っていた歯磨き用のコップなどが、ついさっき使ったかのように置かれている。

几帳面で整理や修繕が好きだった祖父がいなくなり、そしてそこへ夫や父のものを捨てられない妻と娘の思いが重なると、家はゴミ屋敷とは言えないまでも、十分に物質過多の家屋になっていた。

祖父は先祖崇拝や神棚の管理などが日課で、夏休みの朝は、祖父の柏手の音で僕は目覚めた。そんな祖父が管理していた神棚も、祖父の痕跡をそのままにしたいという妻や娘の思いから、埃やヤニにまみれ、祖父が亡くなった日のまま、時が止まっていた。

捨てたいけれど、捨てられない。
手をつけたいけれど、そのままにしておきたい。

相反する気持ちが拮抗し、母の言葉を借りれば、
「モノに囚われてる気がする」
状態になっていた。

土地や家屋をどうするのかというよりも、今住んでいる祖母と母が住み良い環境を作るほうが先決なんじゃないかと僕は思った。


閑話休題。

僕の曾祖父は満州事変のころに列車事故で片足を失った。
そして曾祖父は、足が無くても働くことの出来る洋服の仕立て屋の仕事を始めた。そして僕の祖父が成人した時、ひと針ひと針息子のために、背広を一着仕立てた。

小学生の頃、祖父のクローゼットのなかでビニールを被っている背広を見あげ、僕は祖父に訊いた。

「おじいちゃん、こんなちいさい背広、誰の?」

「俺んとたい。ちいさいけん入らんばってんくさ、俺の親父がつくってくれたけん、捨てきらんとたい」

「ふーん」

祖父がすい臓癌で亡くなったあと、祖母がその背広を僕に送ってきた。

「おじいちゃんが大事にしとったもんやけん捨てられんとばい。あんた、もらってくれんね?」

生地は古く、カビも生えていたけど、クリーニングに出して袖を通したら、今の僕にぴったりのサイズだった。先日、その背広を着て、東京出張に行った。だれも、60年以上前の背広だとは気づかなかったろうと思う。


「着れんやったら、たぶん俺も捨てたと思うけど、着れたけん俺はとっとう(保管している)。捨てることが完全な正義みたいには思わんけど、使えんもんや、着れんもんや、汚れたもんをそのままにして放置しとるのは、ゴミを飾っとるようなもんやと思う。あの神棚ば見たら、おじいちゃん、悲しむと思う」

子供たちの寝静まった別府温泉のホテルの天井を見ながら、僕は家族にそう話した。

すると、モノを捨てたがらなかった祖母が、ぽつりと言った。

「そうたい…あげんことしとったら、あん人は嫌がるばい…ばってんね、捨てきらんとよ…ばってんね、捨てないかん。そうたい、捨てないかんとよ」

すると、母も続けた。

「うん…そうやね。わたしも、あの家ば、もう一回、きれいにしたい」


結局、遺産相続の話はどこかへ行き、親族で家を再生させるという話になった。祖父がいた時にもどるわけじゃなく、祖父がいないいまを受け入れながら、祖父の大事にした物事を整理し、自分達の明日をつくっていく。遺産相続という話から、再生の話へ論点がずれ、結果的に全員がいまを見つめることとなった。

翌日、福岡に帰ってきた僕たちは、家のなかを見てまわった。

ところで「整理」とは、必要なものと不要なものを“分ける”ことらしい。即日、45リットルのゴミ袋60袋ほどの“過去”が家の中のさまざまな場所から掘り出された。その過去すべてに価値はあるのに、いまの僕たちには、それが不要なものになっていた。

僕は庭に出た。

僕が生まれた時に、祖父が植えた梅の木。
毎年、春を告げる花を一番に咲かせ、梅雨には大粒の梅を実らせ、夏には祖母が梅干しを作った梅の木。
そっとその木に近づいて触れると、幹がスポンジのようにぐにゃりと沈んだ。死んでる。もうすでに梅の木は朽ちていたのに、僕たちはその梅の木を放置していた。
枝をおると、ぼふりと湿った音をたてた。
太い幹も、押すと、みぐみしと音をたてた。
幹の中は、すでに分解され、土になっていた。
梅の木に見えたけど、梅の木ではなかった。
それは梅の木の形をした土だった。

僕は、過去が大好きだ。
プールで食べたわらび餅も、見上げた入道雲も、無理矢理詠まされたお経も、なぜかイチゴとかを飾りにいれてきよる謎の素麺も、そろばん教室のトイレの蛇口についたチューリップの飾りも、懐かしいものが大好きだ。だから、過去をとっておきたい人の気持ちにとても共感できる。

けれど、美しい庭をそのまま放置していれば、やがて雑草が生え、生態が代わり、花が代替わりし、景色がうつろってゆく。過去を過去のままきれいにとっておくためには、手入れが必要だとおもう。大事だからこそ、手入れが必要なのだと、そう思った。

僕は、祖父が僕のために植えたその梅の木を、蹴り倒した。
土の香りがたちのぼり、幹はゆっくりと土の上に横たわった。
再生が、はじまった。

ある程度、掃除を終えた帰り際、皆で仏壇の前に座った。
祖父の遺影が、春風に揺れる菫みたいに、笑っているように見えた。

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拝啓 あんこぼーろ
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