教義・教条を超えて

結論:宗教の本質は教義教条ではない。宗教の本来の意義はいかに真の意味で人を生かすかにある】

はじめに

 権威主義的性格の特徴の一つとして「教条主義」があるという。
 また、教条主義には「形式(至上)主義」も含まれる。それは、マニュアルなどに示された「形式」を絶対視し、その「形式」を「教条」としているからだという。

 たとえば何らかの主義を信じ、自ら強い信念を持つのはよいが、それを絶対的な教義・教条として固執し、これを周囲にも強要するとなったら問題だ。時には、自分が信じている宗教なら宗教の本来の意図を逸脱してしまう結果にもなりかねない。パウロも《神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。》(コリント人への第二の手紙:3:6)と述べている。自己が信奉する教義にあまりに固執している場合、時に人の心を殺すような事態におちいりかねないのである。

臨床心理学等における逸脱の例

 まずは、臨床心理学の分野のことを例にあげて、こういったことが宗教以外でもいくらでも起こることを示しておきたい。

 以前ツイッターで、精神科医でもある人が自分が若い頃に経験したこととして書いていたことなのけど、先輩である男性精神科医が患者に対して精神分析的な解釈を不用意に言い放って、その人を自殺未遂に追い込んだという事件があったという。さすがにここではその内容は書かないでおくが、分析とも言えない暴言を吐くことを精神分析だと思い込んで、出鱈目な解釈を振り回す医師がいることに驚きを禁じ得なかった。それはまさに素人療法としか言いようがないレベルなのだけど、そのツイートを行なった医師にしてからが、その程度の「分析」もどきを精神分析だと思い込んでいる模様だったた。

 私自身、精神分析学をきちんと学んだわけではないし、フロイトの著作も読んだことがない。ただ、フロイト派以外の専門家の著作は少し目を通したことがあるし、日本人の専門家による著作は何冊か目を通しているので、精神分析や心理療法のあるべき姿などについては多少はわかっているつもりである。

 その観点から言えば、本来分析治療というものは、患者との複数回にわたる対話的関わりの中から患者の置かれた無意識も含む状況を分析し、その結果得られた洞察を、患者自身が十分に受け容れられるようになった段階を的確に判断して、患者自身が納得する形で提供することが多いとされる。早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。特に早すぎるのは危険だという。だから時間もかかるし、非効率だとも言われるのだが、それでも最初から治療家の分析めいたジャッジメントを患者に押しつけることは御法度だとする専門家が大半である。
 したがって、この手の出鱈目なジャッジメントを分析と称して振り回す人は、フロイト派にも反フロイト主義者にも存在しない。そういった「分析」を振り回すのは、フロイトならフロイトの亜流であり、俗流でしかない。彼らがきちんとした分析治療の基礎教育を受けているとは当然ながら思えない。

 一般に臨床心理士がカウンセリングを行なったりする場合は、自分が基本的な方法論とする流派の先達から教育分析などの指導や訓練を受けていることが多い。したがって、本を数冊読んだだけでカウンセリングを行なったりすることは望ましいこととはされていない。それに、特に大学で専門に臨床心理学を学んだりして臨床心理士の資格を得ている人には、大概が師匠に当たる人がいる。特に医師の場合、これは精神科医に限らないが、若い頃は先輩医師の指導の下で治療経験を積み、さらに臨床現場で経験を積んで独り立ちしているはずなのである。

 深層心理学の大家のお弟子さん、またその弟子に学んだ人たちにしても、これは同じことである。
 当然ながら実際の臨床経験の中では、自分が準拠する流派の学説に合わない患者もたくさん存在するだろう。その時にどう対処するか。その辺の機微も、師匠との知的・批判的なやりとりの中で、そして患者との治療経験の中で、試行錯誤しながら少しずつ学んでゆくものなのである。

 これは何も臨床の現場に限らない。どんな分野でも同じことが言える。
 当たり前の話だが、理論はあくまで理論であって、現実ではない。理論は現実の中から導き出されたものであって、逆ではないのだ。理論が現実を完全に説明し尽くし、あるいは理論が現実の問題を完璧にコントロールすることができるわけがない。世の中が理論どおりゆかないことは誰しも知っている。

 そんなわけで、上記の精神科医は精神分析に関してはずぶの素人だったと言ってよいだろう(精神科医だからと言って、経験も訓練もなしに精神分析的な治療ができるわけがないし、そもそも精神医学と精神分析学とは学問としても別の分野である)。彼らは分析治療の基礎すらしっかりと学んだことがなかったのに違いない。そのような基礎のない、あるいは分析治療のあるべき姿を知りもしない自称専門家が、件の精神科医のような暴言を無反省に吐いたり、逆に患者を甘やかして駄目にしてしまったりするのだと思う。

宗教の変質—教義・教条の逸脱とその暴走—

 前置きとして書き始めた話がいささか長くなった。

 こういうった問題は、先にも書いたとおり、何も精神医学や心理臨床の現場だけで起こることではない。宗教の指導の現場などでも同様なことはいくらでも起こっている。

 長くなるのであまり具体的には書かないが、たとえば「過去世の因縁で今の不幸がある」という教えがあるとしよう(特定の宗教の事例を出さずに一般論として書いているため、あまりよい例が思い浮かばない)。
 大半の新宗教がこういった類の因縁話を説くし、また、この手の因縁論は現代人にはあまり評判のよいものではない。けれども、その宗教の教祖がその教えを説いたそもそもの理由は、何らかの不幸で謂われなく苦しんでいる信者に対して、現在のその人を直接責めるのではなく、「その不幸は今のあなたが悪いわけではないんだよ。たまたま今のあなたとは直接関係のない過去世の因縁が悪いのであって、現在のあなたの努力が足りないわけでもないし、ましてやあなたの性格が悪いわけではない」という意味でなされた「説明」であった場合も多いはずなのだ。(なお、その因縁話が客観的に正しいかどうかはこの際あまり問題ではない。その説明でその人が真に納得し、楽になればそれでよいし、これをキッカケにして、その宗教で正しいとされる生き方をその人が実現できれば十分なのだ。)

 宗教とは別の例をあげよう。
 原因不明の病気で苦しんでいる人がいるとしよう。そういった人は、大概が周囲の理解も得られず、場合によっては、その病気が自分の性格のせいだと思って苦しんでいる場合も多い。慢性疲労症候群などはまさにそうだし、うつ病などもいまだに「怠け病」と言われることがある。そのような人が、「あなたは怠け者だから直ぐに疲れるわけではありません。あなたのいつまでも続くその疲労感は慢性疲労症候群という病気が原因です」と医師に診断され、病名を与えられて救われた思いがする、といったことはよく聞く話である。

 その他の例で言えば、成人になって発達障害の診断を得た人も同じことを言う人が多い。
 もっとも、その手の診断名が世に知られるにしたがって、残念ながら当初は「救い」になったその病名が、今度は心ない人たちによってレッテル語として安易に使われるようになることも多い。ADHDやアスペルガー障害などが現在まさにそのようなレッテル語としてネット上などで氾濫している。これもまた本末転倒な事態だと言ってよいだろう。

 それと同じで、先に例にあげたような因縁話には、原因不明な病気に対して的確な診断名が与えられるのと同じ効用が本来あったのではないかと思う。ところが、その教祖の教えの当初の意図がいつの間にか忘れられて、教義・教条がのさばってくると、折角の有難い教えも人を切り捨てるものに変質してしまう。本来は有り難い教えであり得たはずのものが人を断罪する道具と化すという本末転倒な事態がそこに生じる。
 そういった「変質」が宗教の世界では多いのだ。

 冒頭で権威主義的パーソナリティーの特徴の一つとして「教条主義」的な傾向が認められることを指摘した。キリスト教を例にすれば、その教条主義の最たるものとして、イエスが当時激しく批判したパリサイ主義をあげることができる。パリサイ人は「律法」という教条を絶対視しているわけだが、彼らは律法の本来の目的を完全に失念し、律法を絶対的な教条として、それを他人をいたずらに断罪する手段として利用しているのだ。
 もはやこうなると、最初は救いだった教えがかえって人を殺すものとなる。福音が禍音に変質したと言ってよいかもしれない。まさに「(教義・教条としての)文字が人を殺す」事態である。

正しい宗教、正しい信仰とは何か?

 立教時の目的から逸脱して、その宗教が当初の意図とは正反対のものと化しているといった事態は、ひとり新宗教ばかりに目立つものではない。それは仏教やキリスト教を含む伝統宗教でも、このような「宗教偽造」はいつも起こっているし、これからも起こるだろう。そればかりではない、中にはもともとの意図すら無視した悪質な宗教も世には存在する。それらの宗教の中にカルト宗教と呼ばれる教団が含まれるわけだが、こちらは「偽造宗教」として区別する必要があるかもしれない。

 それに対して、何をもって正しい宗教、また正しい教義・教条とするかとなると多少むずかしい問題が生じてくる。
 これは、その宗教の客観的な正しさという問題の立て方では答えが出ない問題だ。それは、宗教・宗派の違いに関わらず、その人がどのような信仰態度・姿勢をもって実際にその宗教を生きるかの問題だと言ってよい。それは本来、非常に主体的な問題でもあるのだ。そう考えると、これは単純に結論が出せる問題ではないということになる。

 これを少し言い換えて、では何をもって正しい信仰態度・姿勢とするかとするかと問い直しても、やはりむずかしい問題が残る。

 もちろんその宗教の信者(教導者も)はその宗教の教義を真理だと思っているからその教団に属しているのだし、その教えが自分たちを幸せにすると信じて疑わないのだが、よほどおかしなことを信じているのでなければ、それはそれで何も問題はない。問題なのは、その教えを日常生活でどのように運用するかにかかっている。

 それでは、わたしは何をもって正しい宗教、正しい信仰態度・姿勢と捉えているのか。

 この問題に関しては、わたしはとりあえず次のように考えている。
 わたしは、その宗教の教えが、人間を疎外し、結果的に自他を不幸にするようなものであったらならば、それは間違った教えなのだと考えている。その宗教の教義が(その人たちにとって)どれほど正しいものだったとしても、それは関係ない。宗教にとっては、それはさほど本質的な問題ではない。要はその宗教の(現在の)正しさを知るには、聖書にもあるように、その果実でその木を知ればよいのである。

結論:宗教の本質は教義・教条ではない。宗教の本来の意義は如何に人を生かすかにある

 今回もいささか長くなった。そろそろ結論を書きたい。

 わたしにも信じている宗教があるが、わたしはある時、宗教の本質は教義にはないと思うようになった。いや、気づくことができたと言うべきかもしれない。
 宗教の教義や教条は、たとえば接客業におけるマニュアルのようにたしかに大切なものではあるが、しかし、それは決してその宗教の本質的な要素ではない。わたしが言いたいことは、その宗教の本質(本心)からすれば、すなわち、人が幸せに生きられて、その宗教が目指す根本的な生き方を実現することができるのならば、教義・教条は二の次三の次のものでしかないということだ。ちなみにわたしは宗教の定義として、宗教は「人間が人間になるために」あると捉えている。

 宗教の教義・教条とか教理といったものは、信者を逸脱した信仰に走らせないための道しるべ、すなわち地図の役目を果たしていると言える。たしかに宗教理論、特にその宗教の教義・教条と言うものは、その宗教が何を信じ、また何を信じていないかを知る上でとても大切なものである。その意味でそれはとても大切なものであるのだが、逆に教義・教条にがんじがらめになるならば今度は別の意味で信仰の逸脱が起こるということをわたしは述べているのである。
 真実の信仰を生きるには、バランスのよい柔軟な信仰態度が必要となる。信仰の先達、あるいはベテランの信者ともなれば、必要に応じて、すなわちその宗教の本来の目的のためには、その宗教の教義・教条を時に逸脱するようなことすら必要とされるということだ。

 このような見解は、信仰を持つ者には受け容れがたい側面があるかもしれない。しかし、これはわたしの個人的な見解ながら、それと同時にわたしの確信、信念でもある。
 実際はもう少し詳しく論じるべき観点だと思うが、この問題はいずれじっくり書いておきたいテーマでもある。今回は多少荒削りながら、素描としてアップしておいた。

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