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『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』ネタバレあり感想:ちさまひと冬村の対比構造。

ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズがあまりに良かったので書く。

ベイビーわるきゅーれ1作目の魅力は、個人的に「日常系×女子高生×殺し屋」というまるで深夜アニメのような設定をほぼアクションの説得力一本で映画として成立させた所にあると思っている。
そして2作目であるベイビーわるきゅーれ 2ベイビーでは、敵側のドラマによりフォーカスする事で「既に完璧なバランスであるちさまひの成長しなさを微笑ましく見守りつつも相手側の成長を楽しむコンテンツ」としてフォーマットを見事完成させて見せた。

そして今作。
2で完成したかに思われたベイビーわるきゅーれのフォーマットは早くも完全に破綻した。
阪元監督はそんな甘ったるい監督ではなかった。ちさととまひろは挑戦者側にまわり、冬村かえでという最強の相手を前に成長を余儀なくされる。

この冬村かえでがとにかく凄い。


前述したように、ベイビーわるきゅーれの良さの一つには「深夜アニメ感」があり、登場人物の言動には良い意味でアニメ的誇張表現があった。
だが冬村にはそれが無い。
彼にはちさまひのような【殺しモード】と【生活感まるだしの日常モード】のような切り替えが全く無い。いや、無いのではなく、冬村にとっては【生活感まるだしの日常モード】と【殺しモード】が完全にイコールになってしまっているのだ。

この冬村が敵役としてここまで魅力的な理由、それは冬村がまひろのifの姿である事に他ならない。ちさとと出会わなければきっとまひろもこうなっていたんだろうと、今作を観た人なら誰もが思った事だろう。

冬村の家でサンドバッグを叩くシーンや、最後の会話シーン等で2人は度々シンクロする。
似たもの同士でありながら、途中から完全に道を違えた2人(2組)は映画の中で対比の構造として描かれる。

仕事への姿勢

仕事に対する意識が低く、プライベート優先のちさまひと、仕事に対して完全な"意識高い系"である冬村。

祝うはずだった日

県庁で初めて会った日、20歳の誕生日を祝うはずだったちさまひと、150人殺した記念日を祝うはずだった冬村。
命の始まりを祝おうとしていたちさまひと命の終わりを祝おうとしていた冬村という対比は非常に映画的だと感じたし、本来であればどちらも殺し屋であり"命を奪う側"なのだが、今回に限り「まひろの誕生日(しかも成人のタイミング)」という設定を足す事でちさまひをやんわり"命を守る側"に位置付けている点が物凄く上手い。

覚えていない事

上述の「祝うはずだった日」にも関係するが、2人はお互いの祝うはずだった事柄に全くと言っていいほど関心が無い。まひろは殺した相手の事を覚えていないし、冬村は自分の誕生日を覚えていないと発言しているのだ。

潔癖症

冬村は同じデザインの真っ白なスニーカーを3セット所持しており、家で1人それを磨く描写もある。加えて、まひろとの会話の中での「殺しの後に電子レンジを掃除する」という旨の発言からも潔癖な一面が伺える。
一方でちさととまひろの家については言わずもがなだ。

ハンカチと銃の2択

2人に共通して訪れるイベント。
私はこのシーンを初めて見た時、ゲーム「デスストランディング」冒頭で引用される安倍公房の「なわ」を思い出した。

「なわ」は「棒」とならんで、もっとも古い人間の「道具」の一つだった。
「棒」は、悪い空間を遠ざけるために、
「なわ」は、善い空間を引きよせるために、
人類が発明した、最初の友達だった。
「なわ」と「棒」は、人間のいるところならば、どこにでもいた。

安倍公房「なわ」

今作において「棒」は銃、「なわ」はハンカチに置き換えられる。
相手から「なわ」による施しを受けた際、まひろはそれを受け入れるが冬村はそれすら無視し「棒」を選ぼうとする。
冬村は、まひろにハンカチを渡した事で手元から「なわ」を失っており、それ以降は「棒」を「なわ」としても使うようになる。(力によって無理矢理仲間を作る等)
そのハンカチ(なわ)を自らの手に取り戻す唯一のチャンスを、冬村は掴む事ができなかったのだ。

作中で田坂から話される「カニスプーン」の例え話。これに象徴されるようにちさととまひろは2つで1つというのが今作のテーマであるように思う。
まひろはちさとという理解者に出会った代わりに冬村のような強さは手に入れられなかった。だが、それは本当の弱さではないと気付くことで仲間の力を借りて冬村という最大の壁を乗り越えていく。
そしてカニスプーンと同じく「2つで1つ」の象徴として今作描かているのが「箸」だ。
ちさととまひろはラストシーン、ケーキという本来箸では食べないものまで箸で食べる。これは、これからも2人が決して離れない事を表しているように感じられる。
では冬村はどうか。彼は本来箸がないと食べられないような物を買った時でさえ「箸を貰えない」のだ。
これは、今作のテーマをまさに象徴している対比と言える。



上記のように、2人の間には様々な対比が隠されている。

そしてその2人は死闘の末、共鳴し影響し合う。
まひろは初めて殺した相手の名前を覚え、冬村は死後(子供時代の姿になって)まひろの誕生日を祝いにやって来る。

こうして考えると今回確かにまひろは生き延びたが、そのifの存在であった冬村は最後まで孤独なままに死んでいったという事実が切ない。

冬村がもしちさとのような理解者に出会えていたらどうなっていたのだろう?
冬村の宝物であった日記を初めて見た時、彼を「単なる異常者」として一笑に付した2人も、宮崎到着直後の"仕事"が終わった後には反省点を共有したり助言をし合ったりしていた。
ひとりぼっちの冬村にとってそれが日記だったのだとしたら?自分で自分にハンカチを渡すように、彼は日記を通してずっと未来の自分に話しかけ続けていたのかもしれない。

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