シュリグリーはグリズリーだ
衝撃を受けたアート作品をあげるなら
デイヴィッド・シュリグリーだろう
元々、アートを見ることは
Instagramで手軽に映えるから
だったりとかそんな理由だった
気ままな散歩も写真も好きだが
人の通らない場所の
蜘蛛の巣をくぐってまで
在るかどうかもわからない
風景を撮ることに一日を賭けるよりも
洗練された作品がすでに間違いなく
そこに在る。
あまり気に入らなくても
何かしら間違いなく
響くものはある。
入場料というお金を払って、
しっかり見ているんだからね。
得ないわけがない。
その日も、ふらっと
展覧会に入ったのが
シュリグリーだった。
撮影可能な撮影禁止のサイン
書き間違えられたままの展覧会のネオン
Deathが反転する死の門
私は人ですという顔出し用の穴
触れられる作品
美術館や画廊のタブーをぶち壊した作品を
もはや作品ではないと笑い飛ばす
シュリグリー。
綺麗なアートを見にきた私の目に
飛び込んできたのは
ふたつの鼻の穴にペンがささり
不規則に動く生首のロボットだ。
色々な肩の力が抜けて
ブラックなユーモアに
どれもこれも笑えた。
死んだネズミの剥製をアートだと言えば
裕福で上品な顧客が
目にするどころか買うことまで考える
死んだネズミをだ。
だが机にそのまま置いたら
清掃員はゴミに捨てる。
ゴミになった
必要な死んだネズミを大人達が探す。
そんな
全てがアベコベな世界観が好きだ。
これは、今でも
自分が物事を考える時に
役に立っている。
そういえばおばあちゃんが亡くなった時
手際良くスムーズに
次の日には火葬された
皆が悲しくなかったのか
悲しくてそうしたのかはわからないが
自分には金銭の問題に見えた
例えばいつか自分が亡くなった時に
同じように次の日に火葬されるとして
3日、いや死後1週間とかの契約とかで
生前に検体に行く約束をして、
家族が1週間悲しんだら
お金が入る仕組みなんかにして
次の日に火葬してたら
損なんかしてたりしたら
亡くなっても
楽しいんじゃないだろうか
まるで、山中で熊に会ったかのような
顔をするだろう
いや、もはや山でなく海かもしれない。
シュリグリーに街中で遭遇したら
死んだふりをするのがいい?
でも死んだら作品になっちゃうかもね。
シュリグリーはグリズリーだ。