自分への悪口、やめる。
子供の頃から、自分の名前より声にしてきた口癖がある。
「死にたい」だ。
私の鬱は小学生の頃がピークで、「死にたい」の意味と重さを本気で考えないまま、その言葉になにか蠱惑的な引力を感じていた。
今は意味も重さも理解しているから、これがいかに強い言葉なのかがわかる。
結果、自己嫌悪に陥った時に「死にたい」と言えば、一気に自己嫌悪感を吐き出せるのである。
弱い言葉でダラダラ愚痴るよりも、この一言でスパッと終わらせる。
いつの間にかそれが当たり前になって、今では何もしてない時の虚無感の中でふと「死にたい」と呟くことがある。
別に死にたくなるほど虚無ではないのに、一番使い慣れた言葉だから口をついて出てしまうやつだ。
これからインスタントラーメンを作ろうとコンロでお湯を沸かして、麺の食感を想像してる奴が言うには突然すぎると思う。
言った後にびっくりしすぎて「なんで?」って思う。まあ大体は小学生の頃の記憶がフラッシュバックしてるからだ。
最近この口癖に飽きてきた。
だって別に死にたくないのだ。
普通に明日も生きる気でいる。
「死にたい」ほど回答に困る発言はない。
私は本当に死にたいと思っていた時もあるので、「生きていればいいことあるよ」という慰めが嫌いだ。
そんな慰めを言う人間には「こいつは他人の境遇を本気で考えてないからこんな軽いこと言えるんだろうな」とか憎らしく考えていた。
反面、その1/100くらいで「そうかもなぁ」とも思っていた。しかし「そうかもなぁ」を鵜呑みにされて自己陶酔されたらそれこそ死にたくなるので、おくびにも出さなかった。
当時は捻くれていたと思う。
でも捻くれていたと考えるのは、今の私がさほど死にたいと思わないからだ。
まあそんなわけで、私は死にたいという人間をできれば止めたくない。
でも死んでほしいわけでもない。
理由はないけど、今いるなら普通に生きててほしいなと思う。
死にたいのに、怖くて死ぬこともできない人間が、生き汚く泥水を啜ってたらいつのまにかクソ逞しくなってましたみたいな人間譚とか好きだし。
まあ私のことだ。
でも「私にできたんだから、あなたにもできるよ」という言葉は「生きてればいいことあるよ」という言葉と同じくらい嫌いだ。
脱線した。
だから私よ。
今の私は死にたくないから、「死にたい」って言うのやめてほしい。
「死にたい」に小学生からの自分が蓄積しすぎて、もう自分ではない人間の言葉になってる。
そいつが……。
まあそいつというのは私なのだが。
(過去の自分は他人も同然である)
私が私に対して「死ね」と言っている気分なのだ。しかし、私は生きる気満々である。
なのでこの口癖はもう言わなくていいんじゃないかなと思う。
自分の言葉とはいえ、言っても聞いても肩が落ちる。
代わりに「生きるぞ」とか言いたい。
「愉快だ」とかでもいい。