[diary]20200408
きんきゅうじたいせんげんはつれい。
流行り病を忌避して、街角から人が消えている。2020ねん4がつ8にちげんざい。
現実で、ほんとうに起きていることだ。
家で仕事をするようになって少し経つから、じつはわたしの周囲にそこまで変化はない。来るとしたらこれからだ。仕事は確実に減るだろうし、いまある契約も更新はむずかしいかもしれない。困ったことに、それでも今のところ国から補償はしてもらえないっぽい。こんなことなら確定申告なんかしなきゃよかったな、と、まったく辻褄の合わないことをおもう。そしてすごく腹が立っている。
東京では桜が散りはじめ、天気のよい日がつづいています。風が吹いて、はなびらがひらひら舞っていて、きれい。新作ゲーム「あつまれ どうぶつの森」の景色とシンクロしていて、なんか楽しい。
もちろん花粉も飛びまくっていて、朝目が覚めて窓に近づくと圧倒的かゆみに襲われる。例年どおりに。マスクはないけど、鼻水かゆみは待ってくれない。全身かゆい。
住んでいる町はひっそり静かだ。
ここ数週間、少しずつ雰囲気が荒廃してきてもいる。どのへんが、とはなかなか具体的にいいあらわせない。早朝でもきれいに掃いてある家の前の道に桜が大量にふきだまっていたり、いつも丹念にお手入れしてある家の庭木がびよんびよんに伸びていたり。町の空気も、どこか緊張した息遣いがひそんでいるようにおもう。荒廃という単語がしっくりきてしまう。
最初のうちは、情報の過剰摂取のせいで景色が違って見えている、たんなる思いこみかと疑っていたけど、ついおととい、散歩中に行き合った近所のおばちゃんもそう言ってたから、たぶんほんとに荒れているんだろう。このあたりはお金持ちもけっこういるらしいから、別荘とかに逃げている人も多いのかもしれない。ニュースで怒られてたやつ。
それでも、くどいようだけどわたしの暮らしはそんなに変わっていない。そもそも通勤しないし、好きな時間(たいていは人がいない早朝か深夜)に散歩するだけだし。仕事のやりとりはもともとチャットかメールかビデオ会議だし。
あ、買い物の光景はたしかに変わったけど。正直行きたくない。みんな目を合わせないし、意味不明なときに激混みしたり物がなかったり、心がしゅんとする光景がふえた。
それで、緊張事態ですよというお知らせなのかなんなのかよくわからないものが日本のあちこちに向けて発令されたのが、昨日(というか一昨日)。それを受けて、都内のお店はかなりの割合が休業した。せざるを得なかった。いろんな意味で。
都内の映画館は、なんとぜんぶ閉まっている。ショックだった。シアターNが今も経営していたら、泣いていたかもしれない。だって、雨の日とかに、「今日Nに行けば割引なんだよなぁ」と思いを馳せるのがすごく好きだったから。今日もシアターNではホラー映画(かロックの映画)がかかっているのだと想像するのは、あの頃のわたしにとってすごく大切なエネルギー源のひとつだった。
そして、歩いて行ける範囲の書店も、軒並み閉まった。入っている施設が休業なので巻き込まれた形だ。ちなみに個人経営の本屋さんは、ちょっと前から閉めていた。
わが家にはインターネットがあり、Netflixにもアマプラにも加入している。このあいだ、uplinkのレンタル権も購入した。本はこれでもかというほど積んであるし、Kindleも同様。積みゲーは果てしない。
しかも、通販はふつうに動いている。
それなのに、ものすごく悲しくなった。
行ける本屋さんあるかな、と調べていて、「あっ、ぜんぶ閉まってる」と判明した瞬間、遠くでゴーッというつよい風の吹く音が聞こえた。気がした。
聞きおぼえのある音だった。
精神を病んで、ひとり暮らしの閉めきった部屋で聞いていた音だ。
寝たきり、というか、たおれていることしかできない状態で、でも自分のことを他人みたいに見下ろしてて、あーこのままグズグズ消えていけるかな、このままふつっと行けたらラッキーなのに、無理かなあ、もうなんでもいいや、みたいな感情さえも遠くに行ってしまった、もうただひたすらぼーっとするだけの塊になっていたとき。あのとき、すごく近くで、ずっと聞こえていた。
底なしのくらやみから吹き上げるような、吹き下ろすような、ものすごい勢いで移動している空気の音だ。
子どものころ、『時計坂の家』(高楼方子著、リブリオ出版)という本が大好きだった。(今でも宝物の一冊だ。)
夏休みを田舎の祖父の家ですごすことになった主人公は、階段の途中に不思議な扉を見つける。どこにも行けないはずのその扉は、別の空間──巨大な庭園迷路に通じていた。蠱惑的な向こう側の世界に執着するようになった主人公は、連日庭園に通いつめ、ついに迷路の中心を見つけ出す。はたしてそこには、深くて底なしの、まっくらな穴しかなかった。
主人公のフーコは、その虚無を覗きこんだ瞬間、むかし忽然と消えてしまったフーコのお祖母さんは、この深みに身を躍らせのだとだしぬけに悟ってしまう。
当時、自我のようなものさえ見失い、安い無印良品のベッドにでろりと横たわりながら聞いていたのは、その穴から吹き上げる風の音なのだと、ぼんやりと、でもなぜか強く、わたしは確信していた。
もちろん、それはただの病気の症状であり、幻聴だったのだけれど、あの日々に耳元で轟々と鳴りつづけた物凄い風が、また一瞬、吹いた。
たんに情報に疲れた私が過敏になっているだけ。
なのだろう。
けれど、ただお店が閉まっているというだけで、なぜこうも心が不安になるのだろう。
いまかろうじて現実と思い捕まえているこの縁(ふち)が、もしかしたら本当はなくて、ふいと消えてしまうかもしれない。などと大げさなことを思うのは、なぜだろう。いま、何が起きて、私は何を見ているのだろう。
風の音は、いきなり聞こえだしたわけでは、きっとないのだとおもう。