BFC2 一回戦 推し作品感想

BFC2、各グループの推し作品の感想を書きました。書いてるうちに感想なのかどうかもわからなくなってしまった。

最後のほうにもチラッと書いてますが、観測できるのがあまりにもすげえハイレベルな「感想」ばかりなので、最低レベルの雑魚いやつもあったほうがいいんじゃないかなーという気持ちと、あと「お前(作品)が好きじゃああああ!!!!」という雄叫びをどこかに放出したくて書いたものです。

なお、BFC2(ブンゲイファイトクラブ2)のメイン会場はこちらになります。面白い作品ばっかりだから読みに行ってくれ~。

Aグループ「新しい生活」

 死を意識して生きるのは、べつにへんなことでも、特別なことでもない。でも、「新しい生活様式」という言葉がじぶんの生活に登場したとき、死はそれ以前よりすこしだけ存在の主張が激しくなった感覚があって、それはこの作品の歌たちから受ける印象とよく似ていた。
 緊急事態宣言が発令されたころ、生活がやたらのっぺりして、季節が「そう単純でもない」ながらもなんとなく進んでいくなかで、死とか、それに類する暗い不安が不意に顔をのぞかせる頻度と濃度のグラデーションが、この作品を読むと生々しく甦ってきた。

 「潰そうとされる蚊」「あなたからみるわたし」「わたしより街」と、視点が入れ替わることで見える景色が変わる歌が(ちょっと意味合いをズラしながらも)みっつ続き、しばらく間があいて最後、「押し入れの隙間から部屋を眺める」で終わる。最後の歌では視点を交換する相手は「誰もいない」はずなのに、初めて読んだとき、読者である私が押し入れの隙間から誰かに眺められているような、あるいは私が押し入れの隙間に入って私自身を眺めているような心持ちになった。なんでそんなんなるんだろう、面白いなあと思った。

 ここから先は個人的な話になってしまうので、蛇足です。
 最近、PCR検査を受けた。亜急性壊死性リンパ節という病気にかかって40度の熱が何日も続いたため、ステロイド剤を投与する前に念のために受けに行ってこいと言われたからだ。
 検査場に行って愕然とした。そこだけ、まだ4月のままだった。検査技師さんの顔色が誇張でなく灰色で、目の下にはまさかこういう模様が入ってるのか?と疑ってしまうほど濃い隈が刻まれていた。検査場は薄暗く(これは単に照明代の節約とかだと思うけど)、疲弊しきった空気が充満していた。春頃に「医療現場はもう崩壊寸前です」と涙ながらに訴えられていた現実は何も解決していないんだと思い知らされた。人々が普通の暮らしをいとなむ町の一角に、崩壊するがままに放置されている医療の現場がひっそりと存在していた。異常だとおもった。
 その廊下で、突然この作品のことを思いだした。

「そういえば死の瞬間に体重が軽くなるって話はどうなったの」

 ここで言われている「体重が軽くなるって話」は、たぶん21グラムのやつだと思う。この言説が流行したのはたしか2000年の初め頃で、同タイトルの映画の封切りがきっかけだった気がする。すっかり忘れていた21グラムの魂の話を「そういえば」と思いだす記憶の距離感が、今現在GoTOで賑わいを取り戻しつつある世間の空気と、緊急事態宣言発令時の不安と興奮にピリピリしていた世間の空気の距離感と、ぴったり重なった。そして再び、あの視点が反転するような感覚を味わった。押し入れの隙間の暗がりと、検査会場の薄暗い廊下が重なる。わたしが眺めているのは部屋じゃなかったけど、なんとなくなあなあで「普通」に戻ろうと進んでいく世の中の明るさのなかには、たしかに誰もいないようにも見えて、この歌たちは、今の空気をこんなにも巧みに歌っていたんだなと気づかされた。

Bグループ「靴下とコスモス」

 読んでいるうちに、「靴下」と書かれている単語が本当に靴下なのか確信が持てなくなっていってめちゃくちゃ怖かった。
 何かの象徴なんかなあ、とは思うものの、執着の理由を問われて語り手が答えたエピソード、イヤだからなんやねんとしか思えないのでよけい困惑する。Kがそれ以来何も問わなくなる、というか、問うたのかもしれないが、語り手はそれ以降のKの言動を教えてくれないので読者にはわからず、語り手のなかで執着する理由についての説明は決着がついたという判断になっているらしいことが不可解すぎる。
 寓話なのか。なら教訓があるのか。どんな?
 そもそも、私には旅のときとベランダのときの違いもよく判らない。そこに靴下があるのはわかっているのに声をかけてもらえず、目を離した隙に消えてしまった旅のときと、そこに靴下があるのはわかっているのに返してくださいと声をかけず、ただひたすら所在を確認しつづけたベランダの今。いや、違い、あんまなくない……?ていうか、この人なんで他人に話し掛けないの?!「それ僕の靴下です」って言えよ!旅の時もそうだし、今もさ!カステラ食うなよ!話し掛けろよ!……って突っ込む作品じゃないですよね、これ、きっと。本当に読めなくてすみません……。
 とりあえず主人公、靴下いちども穿かないんですよね。だからよけいに「これって本当に靴下なのか……?なにか深遠な比喩なのか……?」とか余計なことを考えてしまう。でもいっこうに教訓は読み取れない。困惑する。けっきょくのところ、ただ靴下を落っことした引っ込み思案の人が、やたら靴下のことを気にかけ続けて季節をまたいだ話を、えらい緊張感を持って読み進めてしまう。なんでこんなに引きつけられるのかわからない……ってこれ、私も靴下に執着してるみたいじゃん。
 という理由により、頭から離れなくなってしまいました。ジャッジの解説が必要です……。

Cグループ「空華の日」

 このグループ、「叫び声」「聡子の帰国」こそが取り上げられて然るべきだともおもったんです。が、ダメだ。どうしてもこの作者の次の作品を読みたい。もうその一心で推します。これぞ推しの力。「トランスフォーム」という単語を平然と使ってくる所で「なんなん……」と絶句しました。(いやその前に「阿ゴリラ」で相当困っていたんですが)
 で、整って上手な作品群を、こういう「お前なんやねん?!何がしたいねん?!」って叫びたくなるような謎の作品が蹴散らすのを見たい気持ちがちょっとあって、「なんでこんなに品の無ぇ奴がこんなに強ぇんじゃ」(c『火ノ丸相撲』)を地で行ってくれるのをひそかに願ってしまいました。
 ダメでも、せめてこの作者の手による作品が、今後ほかにどこで読めるかだけは教えてほしい。

Dグループ「世界で最後の公衆電話」、(「蕎麦屋で」)

 描かれた情景があまりにも好きで、好きすぎて夢に見た。
 なぜこんなに惹かれるんだろうと考えて、なんども読んだ。ここにあるのは、文字からしか想起できない風景だからではないかとおもった。
 「友人」からの手紙に書かれたとおりに、物語の世界では、「声」はほとんど聞こえない。淡々と、けれど着実に積み重ねられる雨・水のイメージのなか、ようやく空気中に放たれた「声」もまた、すぐに夜に溶けていく。もしこれを映像であらわそうとしたら、間違いなく音がつくだろう。そして映像は、すべてがモノとして見えているぶん、恣意的な音の編集は不自然な印象を残す可能性が高い。よけいな文脈を発生させかねないノイズとなってしまうし、下手したらただの“音が小さくて聞こえにくい映像”になりかねない。文章だけが、「聞こえる(=聞こえない)音」を、いつ、どう見せるかを選べる。最後の一文、「窓ガラスに声もなく雨粒が流れていった」。音もなく、ではなく、「声もなく」流れる雨粒。この情景は、文章によってしか脳内で再生され得ない。どんな声が聞こえたのか、それとも聞こえないのか。声は何を語るのか。中国語なのか。理解できる意味のあるフレーズなのか。脳裏に焼き付く風景は、目には見えないひそやかな「声」にフォーカスが合っている。見ることが不可能な映画を見たような気がして、心が震えた。
 ちなみに、私の夢では声は聞こえた気がしたのだけれど、起きてみたら思いだすことはかなわなかった。

 追伸:「蕎麦屋で」もむちゃくちゃ好きです。あの世とこの世の境にある食い物屋、というイメージで勝手に読んだけれど、それがなんでそんなイメージになるのかがわからない。「甲府の中央」とか「蛇」のイメージの連なりからなのかな……。で、彼岸に片足突っ込んでるような食い物屋なのに黄泉戸喫にはならず、飄々とこの世と地続きである軽やかさがおかしくもあり、怖くもある。「影があるんだ」、の述懐で一瞬浮遊する現実感、白昼夢のようなおいしい天丼。なんとなく皆川博子の描く中州を思い浮かべたりもした。

Eグループ「ヨーソロー」(そして箱推し)

 何か言わなきゃ感想にならないのはわかっているんだけど、言うのがしんどい。完璧ではないでしょうか……。
 落語の『頭山』を想起させる不条理な話が、卓抜な言葉えらびでうつくしい幻想譚に生まれ変わったような。「ゆわん」「ぬわり、ぬわり」だけでなく、「ぎょろぎょろひくひく」「そろりと」「ぶくぶくと」「ぐねぐねと」「ひらひらと」、すべての副詞が生き生きしている……。「ヨーソロー」という掛け声が「ヨサロウ」という名前と交錯するのもハッとする。おおおおおすごい好きいいいいいいいいいいい。

 ちなみに、このグループ、全部好きで、もうこのまま全員で勝ち上がってほしいと切に願ったグループでもありました。

Gグループ「ミッション」

 何度読んでも、読了後どうしても冷静でいられなくなる作品だった。
「自分実況中継」という一人遊びがまず凄い。すさまじい自意識過剰ぶりを見せつけたあと、「みどりちゃん」と「桜子さん」のバチバチしたバトルに突入していく。この二人の嫌味のトバしあいが妙にリアルで、でも適度な距離感があるせいか陰湿にはならず、おもわず笑ってしまう。
 その一方で、彼女たちは障害を持ち、“普通”にはない苦労をしているだろうことが窺える。彼女らは、世の中のメインにいる人たちではない。(だいたい、平日の昼間の美術館に来られる人はいわゆる“主流”のひとではない。)二人の“障害マウントバトル”とでも呼べそうな張り合いは、私にはわからない彼女らなりの苦労や寂しさや報われなさがほの見えるようでもあり、その苦しさ、寂しさや自己憐憫ならば私にも思い当たるものばかりで、だから彼女たちのバトルを笑った端からスッと凍りつくような感覚もあった。「このふたりヤベえ」と笑ってしまった瞬間、私はみどりちゃんに「『やっぱり私はあなたが嫌い』確定」と言われてしまうんだろうし、それは何も無根拠なディスりではなく、みどりちゃんなりの切実な「まじない」を笑うような奴は、嫌われて当然だよなとも思うのだ。
 さらにこの小説は、終盤に「カンディンスキーの青騎士は守られた。」という一文で、一瞬あれっとなる。みどりちゃんが脳内で辻褄を合わせてしまっただけかもしれないけれど、もしかして彼女は本当に「カンディンスキーの青騎士」が盗撮なりなんなりの危険に晒されることを事前に知っていたのでは……と勘ぐりたくなる。“頭のおかしなひと”が遂行しているミッションは、実はほんとうに世界を救っているかもしれない。それに、少なくともみどりちゃんの「まじない」は、みどりちゃんから見た世界を救っていることは事実で、だったらそこに実質的な違いはないようにもおもえる。
 とにかく、わたしはみどりちゃんの滑稽な切実さに、どうしても親近感を覚えてしまう。私も他人から見たらみどりちゃんかもしれない、と考えてしまう。あるいは、人の必死さを笑う意地の悪い桜子さんかもしれない、とも。だから、この作品が私には他人と思えなかった。

 蛇足だけれど、この作品で『ブルージャスミン』という映画を思いだした。落ちぶれていくセレブの姉と、それを笑う庶民の妹が主軸になるコメディで、ジャスミンは高慢で鼻持ちならないセレブ女として描かれている。どんなに落ちぶれても自分が「上」の人間であるという認識を捨てきれないジャスミンは、現実との乖離に耐えきれず段々と狂っていく。けれど、私は彼女を最後まで嗤うことはできなかった。ジャスミンはジャスミンなりに自分の矜持に殉じてもいて、私にはどちらかと言えば高潔な人間のように思えて仕方なかったのだ。でも、そんな見方をすることこそが、自意識のバランスが悪く、“マトモさ”がないという証拠なんじゃないかと疑ってもいた。この感覚、みどりちゃんならわかってくれるんじゃないだろうか……。

Hグループ「量産型魔法少女」「voice(s)」

「量産型魔法少女」は、読了後にタイトルの重みがわかる。そして、やっぱりこれも冷静になれない。この作品に描かれている女たちは、どれも少しずつ私のことだと思ったから。
「女の子はなんにだってなれる!」(なれるわけねえだろ)という、ポジティブかもしれないけれどクソ無責任な言葉が足かせになる事実は、私もよーーーーく知っている。だから私も小さいころからプリンセスが苦手だった。この希望/呪いに捕らわれ続けるしおちゃんが「あきらめとして」「わたし」を養いつづけ、それが双方にとって檻になるという確信の確かさと絶望感と、でもだからこそぜったいに逃れてみせるのだという悲壮で痛々しい覚悟が「量産」される現実。それが「魔法少女」であるというクソな現実に、中指を立てているこの作品を推さない理由がない。ほんとファックですわ。

 で。
 となると、「量産型魔法少女」と地続きである「voice(s)」にも触れたくなる。

「voice(s)」を読んでいると、いろんな事を考える。主人公はいまどんな格好で外を歩いているんだろう、傘もささず、たぶん髪もちょっともしゃもしゃで、窶れて見えるんだろうか、それとも意外と平然と見えてしまうんだろうか。彼女のような人(夜に、傘もささずにふらふら歩いている疲れたふうの「おかあさん」)とすれ違ったって、きっと私は声をかけられない。というか、そうやって掛けた悪意のない「声」が、彼女のなかで膨れて大きくなって、いろんなものに押しつぶされそうになってしまっているのに、掛けるべき言葉ってなんなんだろう。彼女のなかで再生される「声」たちは、コラージュされることによって本来の意図から遠くずれたものになっている可能性は高く、それは彼女のせいではないし、「声」を掛けた人のせいでも本来的にはなくて、たぶん社会のあり方とか、流れている逃れようのない空気とかのせいかもしれず、じゃあどうやったら「ねえ、危ないよ」って彼女の袖なり肩なりをひっぱることができるんだろう。 書かれているのは主人公の内側のことなのに、読んでいる私が考えてしまう、思いを馳せてしまうのは主人公の外側のことばかりだったのが見事だとおもった。

 というわけで、二作品、併せて推します。

さいごに

 全作の感想を書けないことにかんして、とても申し訳なく思っています。が、私には手に余るので、できません。ごめん!
 また、こんなふうに「推し」だけを推して、一種の選別をおこなうことが「暴力的」だと言われるなら、私は暴力的な観客でかまわないとおもうことにしました。あ、これ、べつに喧嘩売ってるとかじゃなくて。
 ただ、BFCはたしかに超ハイレベルな戦いだけど、でも私みたいに読む力がそんなに育ってないよわよわなキャラだって、気軽にふんわり感想を言う空気があったほうが楽しいんじゃないかなとおもったので、あえてここで言ってみます。
 もちろん、観客の楽しさが書き手の痛みを踏み台にして成立する可能性はたしかにあります。あるのは重々承知したうえで、わたしは「ほんとにそんなしゃっちょこばらないとダメ?」と言いたいなとおもいました。まんがいちマズげな方向に傾いてしまったとして、そうなってからだって軌道修正はできるはずだし、観客の良識をそこまで疑う必要もないような、気が……。いや、わたしは書き手の苦労をわかってねえのかもしれんが……でももう私には無理なんだよぉぉぉごめんよぉぉぉ。
 ただ、誰でも「なんとな~く」で見に来られて、「あ、これ面白かった!そんじゃあね!」って言って去って行くような空気があったほうが、私は好きだな~と思うし、そうあってほしいなと願っています。
 あれ、これどうやって〆たらいいんだ。
 ええと、そういう気持ちで感想を書いたよという蛇足でした。おしまい!