誰がためにシャッターを切る(その2)
前回の続きです。
「最早、自分が撮る必要ないんじゃね?」と感じながらも、それでも私が体育館でバレーの写真を撮りたいのは何故だろう?
撮る理由
ここで、私も含めてファンはどんな目的で写真を撮っているのかを、ちょっと考えてみました。
①自身の記録用
私にとってはこの意味が一番大きいです。見たものの記録。
記録という割にはあまり見返すことも今はないのですが、当時を思い出す時に実際どうだったけな?と資料のように遡ることはあります。
つい先日も、お友達から「橿原のアリーナに段差あったっけ?」と聞かれ、会場に足を運んでいながらも全く記憶になく、写真を遡って判明した次第です。
あと、当たり前ですが、その時の写真はその時にしか撮れません。
アイコンの氏が駆け出しの頃に、もっと自分で写真を撮っておけばなぁ…と少し後悔しております。その後悔を踏まえて、やはり画像での記録は大事だと。
脳内の思い出はナンボでも美化できてしまうのですが、写真はその時をあるがままに映すからね。ほんと、写真は雄弁。
②コミュニケーションツールとして
コミュニケーションは相手がいて初めて成立するものですが、「写真を用いてコミュニケーション」と言った時に、いろんな相手が思い浮かびます。
友達、SNSのフォロワー、不特定多数、応援している選手…等々。
友達とのコミュニケーションツールとしては、データで送ったり、SNSで公開したり。プリントアウトをして配る事は最近の私はしなくなりましたが、年賀状に使ったりとかはするなぁ…。貰う方ではグッズ化して貰ったことがあります。チューインガムの包み紙に写真、とか。
ただ、私が彼女らにそれらの行為をする時は、あくまで「お友達のため」ってよりも自己満足です。
「これ、見せたら喜ぶかな?」「今日はあの子ここにはいないけど、彼女が好きなこの選手、活躍してる!見せたい!」等々のわくわくする感情。
実際にそれで相手を喜ばせられるかはまた別の話で、あくまで私がそうしたいからしております。
SNSで公開する時は、フォロワーだったり不特定多数だったり、相手が誰であれ誰かに「共感」を求めたいがために掲載しています。
可愛く言うと「ねーねー、これ見てー!」って感じで。
その被写体の素敵さや良い表情、時には張り詰めた表情を見てほしい、見て共感して欲しいという思惑があります。少なくとも私は。
被写体である選手御本人にその写真が届くに越したことはないけれど、自身のは大した写真でもないし、そこまでの期待はしていません。もちろん、届いたら嬉しいですが。
以前は「本人の目に触れるなんてとんでもない!」と思っていたのですが、最近は勝手知らない所で掲載されているよりも、ある程度本人や関係者に把握されておいた方がいいのかもなぁ…位には考えるようになりましたが。(そうでないと不都合があった時の削除依頼も受けられないし)
応援している選手御本人とのコミュニケーションツールとしてはまぁ、撮った写真にサインを貰ったりですかね…。
発想が貧困です。大したことは思い浮かびません。最近はあまりしなくなりましたが、声を掛ける機会づくりにはもってこいです。
③表現方法としての写真
撮ることで何かを伝えたい、表現したい。それが選手の良さだったり、息遣いだったり、スポーツとしての美しさだったり、迫力だったり、匂いだったり。
上手く言葉で表現できないのですが、そういう主張のある写真が大好きです。私には大好きな撮り手さんが何人かいるのですが、彼ら彼女らが映し出す写真は、それぞれがセンスフルで個性があって、惹かれるものを持っています。
そういう域に私も達することが出来たらこの上なく嬉しいのですが、とてもじゃないけれど足元にも及びません。嗚呼、残念。
ちなみにここで言いたいのは、ただ綺麗な写真とか、技術的に高い写真とかではありません。むしろその手の「キレイキレイ」な写真は、プロに任せておけばいいとすら思っております。だって綺麗に撮ることに関してはプロにはやはり敵わない。目指したいところはそこじゃないんです。
④ファンであることをアピールするツール
上記③が「写真を通じて何かを伝えたい、表現したい」というのに対して、こちらは「私はこの選手(チーム)を応援してるの!」と他者に自己アピールをするために撮ることをイメージしております。
私はそれ自体は当然の流れだと思っております。事実、最初からそれが目的でなくても、結果的にそうなってる方は多いのではないでしょうか。
分かります。そりゃ、好きなものはたくさん撮りたくなりますもん。せっかくだし、撮ったら人にたくさん見せたいですもん。
ただその一方で、好きだとか応援しているという事実は、敢えて力まなくても、敢えて「写真をたくさんアップロードする」という手段を取らなくても、自分の想いは第三者に伝えられるんじゃないかと思っております。
愛情は、そこはかとなく滲み出るもの。
私はさりげないけど気がきいているもの、粋なものが大好きで、大袈裟なもの、態とらしいものはあまり好まない性分です。
なので、写真というツールを使っての自分の想いや愛情のアピールは、そこまで大々的にしなくてもなぁ…と思っている節があります。
それでも今、写真という表現方法が、ファンであることのアピールにあちこちに使われているってことは、それだけ写真は雄弁だということでもあるのかなと。
実際、特定の選手やチームの写真が数多く掲載されていると、それだけその撮り手さんに、ファンとしての熱量がたくさんあると錯覚してしまう節があります。写真は目印として、視覚的に分かりやすい。
ただ、パッと見、良い写真を並べる撮り手さんでも、見せたいのは写真そのものや選手達の姿なのではなくって、その場所にいる自分自身の存在なのでは…と気づいた時点で、さーっと興ざめしてしまう私がいます。これはあくまで個人的な感覚なのですが、写真で殴りかかられているかのようで。
・・・ざっと、こんなところですかね。理由として思い当たるのは。
結論
そんなわけで、私が体育館でバレーを撮りたい理由として、当てはまるのは①>>②で、目指す姿としてありたいと思うのが③で、あまりそうありたくないのが④というところでしょうか。
しかし実際に撮っていて、そこまでシンプルな目的なのかなぁ…とよく分からなくなってる私がいます。
ただ、表題にある「誰がためにシャッターを切る」のかと尋ねられたら、はっきりきっぱりとこう答えます。
「自分のためです。」
回答は一択。これ以上でもこれ以下でもない。
そんなわけで、これからもきっと、出来る限り足繁く体育館に足を運び、写真を撮るのです。
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