他者には他者の世界があるっていつ気がつきましたか?
子供時代を思い起こさせるような北海道の夏。
そのせいか、子供の頃の忘れられない体験をふと思い出しました。
100%自分語りなので、
人はいつ、自分と他者との区別をつけるようになるのかが気になる方だけお読みください。
もしも似たようなテーマで書かれたエッセイがあれば読んでみたい。
人はいつ、どのタイミングで自分が独立した存在であることに気付くのでしょうか。
私にとってそれは、幼稚園の頃の出来事でした。
幼稚園の帰り。
家の近くの公園で、私と母と、かおりちゃんと彼女のお母さんがいました。
季節はいつだったのか、年中なのか年長なのか。
かおりちゃんの顔も声も記憶になく、何を話していたのかも覚えていません。
覚えているのは夕方だったこと。
幼稚園の制服でリボンのついたフェルトの帽子を被っていたこと。
もうすぐ夕飯だからとかおりちゃん母娘とお別れをして、そこで突然自分は気付いたのです。
かおりちゃんには自分とは別の、かおりちゃんの家があること。夕食も自分とは違うものを食べること。
かおりちゃんには、自分の知らないかおりちゃんの時間が流れているのかもしれないということ。
当たり前のことですが、これは当時の自分に大きな衝撃を与えました。
え…じゃあお母さんも、お父さんも。
私が知らないだけで、見てないだけで、それぞれ別の時間があって。
一人ひとり異なる視点で世界を眺めて、それぞれの時間を過ごしているの…?
世界がくるりと反転したような恐怖に怯え、自分は泣き出し、驚く母に、混乱のままに嘘をつきました。
「かおりちゃんに意地悪された」
もちろんかおりちゃんは何もしていません。
自分でもなぜそんなことを言ってしまったのかわからなくて、でも今になって思うのは、おそらくその感覚を確かめたかったのだと思います。
結局嘘だと言うことがバレて、母は私を連れてかおりちゃんの家に謝りに行きました。
玄関で戸惑うかおりちゃんに、嘘をついてごめんなさいと謝り。
奥から漂ううちとは違う夕飯の香りに、自分とかおりちゃん、それぞれ異なる時間を生きていることを確信しました。
それは、他者には他者の人生があることに気付いた瞬間。
自分だけが主人公だった世界は失われ、人の数だけ世界が存在することに気付き、衝撃を受けました。
きっと誰もがどこかで学ぶ、自分と他者との区別。
おそらく「パパと結婚する!」という幼い娘さんは、まだこの区別がついていません。
パパを自分以外と認識している(から結婚したい)けど、ママと結婚していることには気付かない。
彼女の中でママは自分のママでしかなく、パパの奥さんではないのです。
自分が主人公の世界しか知らないから、パパにはパパの人生があることを理解できない。
ここで「結婚しようねーデレデレ」ではなく、「パパはもうママと結婚してるんだよー」と返すことで、自分視点だけで世界を眺める幼少期から卒業出来るきっかけとなるかもしれません。
ときに、大人になってもまるで幼子のように自己中心的に振る舞う人がいます。
そんな人はもしかしたら、こういった体験をしないままに年をとってしまったのでは。
最近つらつらとそんなことを考えました。
このように人は皆、どこかのタイミングで気付いて自然と学ぶのでしょうか。
自分にとっては世界がひっくり返ったかのような衝撃体験でしたが、もっと自然になんとなく理解していくものなのかな。
涼しい北海道の夏に、子供時代の忘れられない体験を思い出しました。
当たり前のことだけど、人が世界を学ぶ第一歩のような気がしました。
最後まで読んでくださった方がいらしたら感謝です。素敵な一日となりますように!
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