お伊勢参り道中記
スーパーに米がないということで、ふとお伊勢参りに行きたくなった。別に米不足を特段憂いているわけではないし、米がちゃんと実るようにお参りに行くほど信心深くもない。どうせあと半月も経てば収穫が始まってスーパーにはキラキラの新米がこれでもかと積み上がるのである。何より多少米の供給が滞ったところで飢饉が起こるようなご時世ではない。スーパーを眺めてみれば空っぽなのは精米だけで、野菜も肉もパンもたけのこの里も不足よりはロスが心配になるレベルでこれでもかと積みあがっている。別に慌てて米を買い求める必要性はまったく感じない。ではなぜお伊勢参りに行きたくなったのか。
歴史を俯瞰すると飢えよりもダイエットに関心が集まるようになってから、まだ1世紀も経っていない。それ以前というのは日本人の主要な関心の一つには間違いなく「飢え」に対する恐れがあったわけである。事実戦中戦後、物流網がズタズタに寸断された日本の都市部では「餓死」は日常だったという。日本人が「飢え」から解放されたのは長い歴史に位置付ければごくごく最近のこと、比較的生産体制や物流網の整備が進み政情が安定していた大正、昭和初期でも度重なる凶作による欠食児童や婦女子の人身売買の悲しい歴史が記録されている。
つまり少し前の時代まで日本人の最大の関心事は常に「米が手に入るか否か」であった。そしてその米の豊かな実りを神々にお祈りする最高、特別格の神社が伊勢神宮である。日本人にとって特別な存在であるのは間違いない。スーパーに米が並んでいない今こそ訪れて、その雰囲気を感じに行かなければならない。というわけで僕は大阪の鶴橋から近鉄特急「しまかぜ」に乗り込んだ。
皇族方のお召し列車としても使用される、お伊勢参りに特化したラグジュアリーな時間が提供されるザ・観光列車である。限界まで窓を大きく設計したと思われる車窓越しに、広大な土地一面にたわわに実る伊賀米の稲穂が、風になびく光景が後ろへ流れていく。
米不足は間もなく終息する、という事実を圧倒的なスケールで見せつけられた形である。
とはいえ五穀豊穣をお祈りするとか、豊かな実りに感謝するとかそういう大層な旅ではない。デラックスな特急に乗って車窓を眺めつつビールを飲みながら向かい、神々に自分勝手な現世利益をひたすらお祈りに行こうという邪な動機の旅である。
車窓を流れる豊かな自然を眺めながら飲む、しまかぜ限定ラベルのクラフトビールが雰囲気との合わせ技一本でとてつもなく美味い。しまかぜに乗るためだけに旅に出たいぐらいの体験が楽しめる。
お伊勢参りにはなぜだか、厳粛さは求められない感じがある。その気軽な感じは、男二人のお伊勢参りドタバタ珍道中を描いた江戸時代の滑稽本、十返舎 一九の「東海道中膝栗毛」でにも色濃く描かれている。主人公の弥次郎兵衛さんは駿河出身の裕福な商家の生まれであるが
「借金は富士の山ほどあるゆへに、そこで夜逃げを駿河ものかな」
という顔見知りではないが小一時間説教したくなるレベルの大変ふざけた句を詠んで江戸へ夜逃げするような大放蕩者である。その現代の基準なら噴飯物の悪い男と旅をするのが喜多八。元々弥次郎兵衛馴染みの陰間(男娼)であり今は弥次郎兵衛の居候という間柄である。陰間というのは13歳から20歳ぐらいまでの美少年が中心で、今どきなら週刊文春にすっぱ抜かれて性搾取事件としてBBCでも取り上げられそうな事件であるが、そのような描写も含め東海道中膝栗毛はシンプルに「滑稽本」として江戸時代の庶民に親しまれていたらしい。そのようなふざけたダメ男の珍道中がベストセラーになっても特に誰も怒らない、そういう気軽な感じがお伊勢参りという風習にはある。
さて、そんなしょうもないことを考えつつ車窓を眺めているうちに宇治山田駅に到着。
大変豪華な造りの駅舎である。皇族方や大臣が毎年参拝に来る駅であるが故に近鉄電車が威信をかけて建てた感じがすごく出ている。
伊勢神宮は衣食住をはじめあらゆる産業の守り神である豊受大御神をまつる外宮と、神々のなかでもっとも尊い天照大御神をまつる内宮とで出来ている。そしてならわしとしては外宮からお参りする、ということになっているため徒歩で外宮を目指す、と言いたいところだがその前に外宮の参道に居並ぶお食事どころの一つで腹ごしらえをする。
見るからに脂が乗った新鮮なまぐろの刺身と釜揚げしらすを白米の上にドカンと乗せたまぐろ丼である。三重県は豊かな森の栄養がこれでもかと流れ込む内海の伊勢湾と、黒潮に乗って外洋の恵みが流れ込む熊野灘、外洋と内海の恵みが複雑に入り乱れる鳥羽・志摩地域と古くから大変豊かな漁場であるらしい。五穀豊穣の守り神のお膝元に、豊穣の海があるわけである。以上の条件を踏まえれば、伊勢に来たからには「海鮮丼」を食べなければならないというのが僕の確固たるポリシーである。伊勢には伊勢うどんという名物があり、魅惑的な看板がずらずらと立ち並ぶが、僕はそれらの誘惑をすべて断ち海鮮丼を求めた。
マグロの脂が甘く舌の上でとろけていくなかで、釜揚げシラスの元気な旨みが弾ける。まさに絶品である。帰りの特急の前にも必ず海鮮を食べる!と、かたく胸に誓いを立てつつ店を後にする。
さて、いつになったらお参りに行くねん!という感じの旅路であるが、ようやく僕は外宮の入り口に立った。
深い緑の森と晩夏の入道雲、その圧倒的な自然を目の当たりにするとなぜだか郷愁を覚える。僕は生まれも育ちも都会なので深い緑の森に郷愁を感じるような人生ではないのだがなぜだか感じる。
正宮の隣にはすでに令和15年に予定されている式年遷宮の敷地が用意されていた。式年遷宮とは面白い風習で、神殿だからといってゴージャスで頑健な造りにするのではなく、朽ちてきたらあっさりぶっ壊して新しいのを作ろうという前提で建てるのである。これは神様を常に新しい神殿でお迎えしなければならないという「常若(とこわか)」という考え方によるという。思えばこの思想には日本文化の非常にユニークな点が凝縮されているように思う。
例えば日本の不動産市場では、新築物件と中古物件の資産価値の落差が欧米諸国と比べて極端に大きい。中古になって極端に価値が下がるのは日本の不動産市場独特の現象である。
また歴史都市の保全についての考え方も欧州と日本では大きな差を感じる。フランスやイタリアの古い都市を眺めると、建築物の色合い、高さ、素材などすべてがある時代の様式で統一的に保全され、まるで町全体が一枚の絵画のように仕上がっていて非常に美しい。
一方日本の代表的な歴史都市である京都を眺めると、まず入口のJR京都駅からしてゴリゴリの銀色キラキラ近代建築である。そして京都駅の北側すぐには131メートルにもなる、およそ古都との調和とは無縁な真っ白と真っ赤で塗られた京都タワーがドカーンとそびえ立ち、観光客はその京都一の高所から古都を展望し、近代建築の直線の隙間に茶色の古都の名残を発見し楽しむという流れになる。この古き良きものにこだわらずあっさり上書き保存していく営為の淵源には「常若(とこわか)」があるのではないかとつい想像してしまう。
さて、式年遷宮と日本文化について愚考しながら歩みを進め、内宮に着く。
内宮へ渡る橋の下には五十鈴川という清流が流れている。この橋を渡ると浮世仕事でへばりついた船底のフジツボみたいなやつが洗い流される気持ちになる。ハゲ部長のご機嫌のためにお客様を二の次にしてしまったあんな日や、クソみたいな客のために部下を悪者にしてしまったあんな日、そんな日々の穢れをこの五十鈴川の音と太陽の光で洗い流してからお参りに行くのである。
隣を親子連れが歩いていた。「神様にはお願いじゃなくて感謝をするんやで!」と9歳ぐらいの子供に教えている。その言葉は僕のハートにグサッと刺さり、宝くじ7億円当選祈願の予定を急きょ変更して、毎日お腹いっぱい、お医者さんに怒られるレベルで飲み食い出来ている現状を神様に感謝することにした。
内宮の参道へ入るといつも思うが木が太い。全部の木が太いから画像では伝わらないかもしれないが、めちゃくちゃ太いのである。この木の太さを見るためだけの目的でお伊勢参りするというのでも絶対に価値がある。人類の歴史というのは1世紀2世紀と100年単位でざっくり区切るが、内宮の木の太さは100年単位では説明がつかない太さである。ちっぽけな人間の時間軸とは別次元の歴史の長さを感じられる空間である。
内宮でお参りを済ませたあと、おかげ横丁へ向かう。松坂牛の牛串、カキフライ、各種スイーツ。完全に欲望を掻き立てるための町に仕上がっている。しかし僕には帰りの特急に乗る前に海鮮を楽しむという使命がある。決してそれらの誘惑に屈するわけにはいかない。強い使命感を持って僕は和太鼓の演舞を眺めながらキンッキンッに冷えた生ビールを飲むだけにする。
良い、非常に良い、真夏の太陽から束の間離れて飲むビールは良すぎる。至福と言っても良い。
なんかビール飲んでばかりな気がするが、あくまで今回の旅行の趣旨はお伊勢参りである。
さて、昼に海鮮丼をいただいて夜も魚を食べると決めた僕は帰りの特急に乗り込む1時間前に宇治山田駅スグの海鮮居酒屋に滑り込む。
ピチピチ新鮮魚介の旨みがバチバチに舌の上で弾け続けちゃうから、ドライなビールで流すしかないという至高のお食事である。途中で穴子の天ぷらの甘みとししとうの天ぷらの苦味を足しながら、伊勢の恵みを最後の最後まで吸収していく。
帰り際、店のお姉さんに「飯ものは要らなかったですか?」と聞かれたから「電車がもう来ちゃうんで」と答えたら「次はもっと遅い電車を予約してくださいね」と言われてキュンとした。伊勢にはこのホスピタリティ精神が自然に根付いていて観光客にとっては非常に心地よい。次来る時は絶対にギリギリの最終を予約しようと胸に誓った。
以上、束の間の休みを利用したお伊勢参りの記録である。近場でもたまに旅に出ると心が洗われてよいね~🐶