見出し画像

「自己実現」「理想の自分」という呪い言葉にふりまわされた私の物語(高校編)

こんにちは、ぱやぱやです。

私は世の中でよく目にすることが多い「自己実現」や「理想の人間になろう」というキャッチコピーが嫌いで、あれは一種の呪いだと思っています。

いまここに存在している「自分」を捨て去って「自己実現した自分」を本当の自分と勘違いしてしまうと、いつまで経っても「本当の自分」に辿り着けず、失望することが増えて、不幸になってしまうからです。

これは私の持論ですが、不幸な人生とは「本当の自分からどんどん離れ、何かを演じて生きること」だと思っています。

また、理想の自分を追いかけて、ある程度成功してたところで「自分は特別な人間なのだ」という傲慢さや横柄さが出てしまい、嫌なやつになってしまう可能性すらあります。

自己実現や理想の人間を目指すことによって、本来の自分を見失うようになり、何かを得たところでむなしさや、嫌な性格しか残らなくなってしまうことを考えると、「自己実現」や「理想の自分」を追いかけることに本当に価値はあるのでしょうか?

私がそう考えるのは私には「自己実現という呪い」から発生した「自分は特別な人間」という病を抱えていたからです。

「自分は特別な人間」という病に患っていた時期はかなり長く、いま思い出すとその時期は「愚か者そのもの」でした。そして、私はあるとき「自分で
きないほうの特別」と悟るようになり、「自分は凡才以下の人間だった」と理解し、その運命を受け入れた瞬間に大きく運命が変わることになりました。

その経験から皆さんにお伝えしたことがあり、本コラムを書くに至ったわけです。

私が自己実現という呪いにかかり、「自分は特別な人間だ」という病を発症したのは高校生のときです。

私が中学卒業後に進学した進路は偏差値50前後の公立高校で「なんの才能のない平凡な奴らの寄せ集め」みたいなところでした。私もその一人で、特に運動神経がいいわけでもなく、勉強ができるわけでもなく、ギターが弾けるわけでもなく、ダンスが上手いわけでもなく、女性にモテるわけでもない。でも、不良でもなく、優等生でもない。

誰にも褒められないが、誰にも怒られるわけでもない。一目みたら、すぐに忘れてしまうような高校生が私だったのです。まさにアニメに登場する一瞬の閃光で撃破されるロボット兵のような存在でした。

偏差値50前後の高校では「研究者になる」「弁護士になる」「医師になる」などの夢を持つ人間は誰一人おらず、「偏差値50ほどの大学」に進学できれば「とても頭がいい」と言われるような世界でした。

それゆえにみんな「今が楽しければそれでいい思考」で流されていき、流れ着いた先が自分の人生だというわけです。私もその思考で流れ着いた先が、その高校だったので仕方ないでしょう。

真面目そうなやつほど勉強はできない、個性は髪の毛を染めて、耳にピアスの穴を開けるだけ、妊娠して高校中退をした女子の同級生が卒業までに5人、抗うつ薬をみんなで飲んで、ラリって停学になるやつが8人、野球部は学校で俺たちが主役みたい顔をするけど、1回戦敗退で号泣。今ではさらに少子化で没落し、Tiktokの強豪校として話題になっているのが私の母校でした。

高校に進学した私にも友達はいましたが、一緒にしても心底楽しいと思えることはなく、漠然としてむなしさをよく感じていました。感動とは「想像の向こう側に存在している」という言葉がありますが、友人との時間は何もかもが想像の範囲内で、もはや感動がありませんでした。

そんな当時の私の感動とは文学と音楽でした。中学3年生のとき、ドストエフスキーの「罪と罰」を手に取って、頑張って読破した経験から、「難しい本でも頑張れば読める」という自信で、あらゆる文学作品に手を出すようになり、読書をすることで想像の向こう側を目指すようになりました。

古今東西の有名作家、有名作品をひたすら読み、高校2年生のときには立派な文学青年となっていました。また、多くの文学青年は音楽を愛するようにUK80sのニューウェーブバンドをこよなく愛するようになっていきました。ジョーストラマー、スティング、ポールウェラー、イアン・カーティス、モリッシーは高校時代の私の心にど真ん中に刺さり、毎日ひたすら聞いていました。(スザンヌベガとケイトブッシュも大好き)

高円寺に下宿をしている大学生のような趣味ですが、そのおかげで私は社会の見方、勉強の重要性、心が震える文章を知り、ただのアホから「文化的で幅広い知識のあるバカ」にグレードアップすることができたのです。

ただ、当時の私には「話が合う人間がいない」という大きな問題がありました。三島由紀夫、米原万里、カポーティー、ナボコフ、クッツェーの話をしたくても、できる相手は私の世界には国語や社会の教師ぐらいでした。普通に考えてみれば、文学や音楽なんて聞かなくても生きていけるので、当然だと言えるでしょう。

私の当時のクラスの同級生は、マクドナルドでポテトを食べる、サッカーをする、原付バイクで海岸沿いを走る、花火をする、プリクラを撮る、流行りの音楽を聴く、タイトルと帯を見れば全てのストーリーが理解できる小説を読む、といったことに忙しく、「楽しそうでいいじゃないか」といま考えると思いますが、当時の私はその平凡さにうんざりして退屈し、この世界から抜け出したいと強く思うようになっていったのです。

当時の自分は、「ふつうの人生」と「ふつうの社会」になじめない、かなしきピエロでした。ふつうを演じることもできない、ふつうに染まることもできない、ふつうのヤツ、それが哀れなピエロな私でした。

そんな哀れなピエロは「スペシャルな人間」になりたい、と考えるようになり、道化師としての技を磨くべく、ロシア語が学べる東京外語大を目指したいと考えるようになったのです。なぜロシア語?それは他の人がやらない言語かつ、ロシア文学が好きだったからです。カポーティーみたいな黒縁のメガネをかけて、ロシア語の本をいそいそと読む、特別な人間になりたかったからです。

a-haのTake on meのPVの女性のように、ここじゃないどこか、鏡の世界に飛び込みたかったのです。

しかし、そんな私に高校の教師の目はかなり冷ややかでした。というのも偏差値50の高校生ははっきり言えば「勉強のできない子」たちの集まりだからです。勉強の結果は努力をすれば、絶対になんとかなるという甘いものではなく、能力の限界でどうしようもない壁にぶつかってしまうことも多いからです。

当時の私は担任の教師や進路指導の教師から、
「人生は学歴だけじゃない」
「偏差値だけで大学を選ぶのはよくない」
「勉強ばかりよりも、他のことを楽しみなさい」
と志望校を諦めるようなことを何回も言われました。

しかし、これは嫌味でもなんでもなく、教師たちの優しさだったのです。
「頭が悪くて勉強ができないやつが、一生懸命勉強しても上限値は決まっている。だから、もっとみんなと遊んで、背伸びをせずに生きたほうがいい」というメッセージだったと大人になった今では思うのです。

私はファーストガンダムの第一話に登場する「俺だってやってやる、やってやるぞ」と言って、ガンダムに撃破される哀れなパイロットと同じ運命を辿るなと、思われていたのです。

「そもそものスペックが違うのに無理をするから苦労する」と教師たちはもう知っていたから、お金さえ払えば入学できそうな大学のパンフレットを私に渡して、「ここはいい大学だぞ」とアドバイスをしてくれました。私には「その大学の良し悪し」はわかりませんでしたが、その大学に進学したところで、いま自分がいる世界と全く同じで、キャンパスで中身のない話が繰り広げられていることだけはハッキリと理解することができました。

その大学に進学して、せいぜい変わることはみんなの飲み物がコーラからビールになり、マクドナルドが激安居酒屋になって、遊ぶ場所がラウンドワンからラブホテルになるぐらいで、退屈な運命からは逃れられないと私は一瞬で悟ったのです。

流行りの漫画の話題しかしないやつ
テレビの一発ギャグでしか笑いをとれないやつ
イケてる、イケてないでバカにするやつ
一回戦で負けて、号泣していたくせに翌日は茶髪の野球部のやつ
自分はバイトでたくさん稼いで、パチンコで負けた話をするやつ
マクドナルドで最強のサイヤ人の話をするやつ
声が大きいやつが勝利すると思っているやつ

生徒の目標に対して「やめたほうがいい」という教師

それが私の人生の全てで、もう変えられない。

そう思ったときに「おい、ちょっと待てよ」とオアシスのリアムギャラガーが私の頭の中のステージには登場し、Super sonicを歌い出したのです。

You Need To Find Out
もう、あんたは気がつくべきなんだ
'Cause No One's Gonna Tell You What I'm On About
自分が言いたいことは誰も教えてはくれないってことを
You Need To Find A Way For What You Want To Say
自分が言いたいことは、自分で言えるようになれよ
But Before Tomorrow
夜明けがくる前に

歌い切った後にポケットに手を突っ込んで、すぐに帰っていったリアムギャラガーの後ろ姿を見て、私は決意を固めました。

「退屈な人生を変えてやる」と。

もう、私は何もかもうんざりして、この高校から早く抜け出し、何も挑戦せずにいる人生を終わらせたいと、心の底から思ったのです。

そして、私の高校生活は修行編に突入することになりました。高校の授業は出る価値がないと悟った私は、高校をサボれるだけサボってひたすら予備校で自習をする日々が2年生の春から始まったのです。

狂気が混じった眼差しで英単語帳に睨みつけ、お高く気取っている英単語を威圧するチンピラのような私に、周りの同級生は「こいつはとうとう狂ったな」という視線を向けてきましたが、人生を大きく変えるためには「日々の努力でコツコツ頑張ろう」では通用するわけがありません。

今までの人生を大きく変えるためには狂気的な執念が必要だからです。その様子はパチンコの「チャンスモード100回」で大当たりを引くことを念じるギャンブラーのように、何かに血走った目と神がかり的な祈りがないと、人生を変えること不可能です。

ベートーヴェンが生涯最後の作品に書き込んだ
Muss es sein? (そうでなければならないのか?)
Es muss sein! (そうでなければならない!)
という言葉のように、人生を大きく変えるときには「そうなりたい」ではなく、「そうでなければならない」と宿命を感じる必要があります。

ただ、この宿命は「呪い」にもすぐに転じることを後に私は知ることとなったのです。

最終的に東京外語大や他の志望校は不合格だったものの、身内の自衛官に勧められた防衛大学校の文系専攻に一般受験で合格をすることができました。実は防大もロシア語が専攻ができる日本では数少ない大学の一つだったのです。努力はやっぱり報われる….と言いたいところですが、これには実は裏の話があります。

防衛大学校は文官の教官が試験問題を作成するため、一般大学よりも独特な問題が多く、受験年によっては「激ムズ問題ばかり」から「楽勝問題しかない」という年があるのです。

私が受験した年は「英語が激ムズ」と呼ばれた年で、試験中にほとんど解けずに「やっぱり、自分には無理だったな」と思っていましたが、なんと合格でした。同期に聞いたら、英語が得意なやつでも「あれはかなり難しい」と言っていたので、合格するかどうかはほぼロト6と同じ。ただの確率の問題です。

さらに国語も手応えなしでしたが、世界史だけは満点の自信があるので、かなりギリギリのラインで合格したのでしょう。防衛大学校の文系専攻は全体の2〜3割ほどで、倍率は20倍近い、当時は早慶上智のレベルとどっこいといわれた狭き門をほぼ運だけで突破したのが実情でした。哀れなピエロはスロットマシーンの777のジャックポットを引き当て、大量のコインをゲットすることができたのです。

こうして私はあれほど嫌っていた凡人という世界を脱出し、未来が約束されたエリートという世界に飛び込むができたのです。ただ、私はこの成功経験によって、自己実現という呪いがさらに強くなり、自分は特別な人間だという病をこじらせるとともに、ビットコインのようにボラリティが激しく乱高下する人生の幕開けだったのです。

つづく

いいなと思ったら応援しよう!