凡庸雑記「商売」愚鈍な天才には自信ある商売人が必要?
昨日書いた新田氏の写真の話。僕の常識としては、写真家と謳うならば、それで、それのみで生活が出来ていることだと考えていた。
それを、写真で生活するための糧を得ることを、潔いのか、真摯なのか、捨て。写真を撮ること、自分の創作品を、生活から離したことに、頭をガツンと殴られたような感動みたいなものを受けた。
あれほど、人の命に寄り添った、それでいて、他者に対して余計な力みのない、正直、素晴らしいとしか感じない写真を撮れたのだから、同氏の写真に対する試みは、成功だったのかもしれない。
もちろん、話は単純なことではなく、素晴らしい作品を生み出し、感動を心に灯したたならば、どうしても、それに見合う見返りを得たい、得て欲しいと願ってしまう。
よくビジネス書とか読んでいたのだけど、それこそ熱心に、マーケティングや、戦略やら、ビジネスプランとか、あれやれや。あの頃は、ボンクラな僕でも一角の人物に、カリスマ起業家や経営者などになれるかも?と、淡い愚かさを纏いながら生きていた。
そこで、案外多く語られていたのが、日本人は良いものを作ればいいと思っている。それでは、売れることはできない。十分な結果を残すことができない。それを読みながら、万年平社員で万年金欠の我を棚の一番上の高いところに放り投げ、身勝手に、腹黒く、そうだそうだ、日本人ってやつは余計なことばかりせいを出して、成功の本質とか、仕組みを全く考えない。
なんて、腹立たしいほどの傲慢不遜なことを考えていた。
今でも、たいしてその呪縛からは抜け出てはいないのだけど、愚鈍にも高みに進み続ける、重箱の隅を突きづづける、そのことを、そのことしか、出来ない、考えが思いつかない人もいるのだと、そして、それはお金ではない、良き人生を得るきっかけなるのだと、思えるようになった。
日本の創作はそんな愚鈍な天才たちによって造られてきたのかもしれない。なんて、思う。
古い日本映画、まさに歴史に残るほどの名作が続出していたその時、利益を考えず、自分の創作を追い求めて、周りを踏みつけながら、作り出してきた。意外に、上映当時は人気がなくて、閑古鳥が泣いていたなんてことも聞く。
それと、アニメ。
これなんかは、その典型なのではないだろうか。
プラック仕事の典型揶揄されるほどの過酷な環境にもかかわらず、吐き出される数々の作品は、全てとは言わないけれども、常識の奥底をノックして、奮い起こす力がある。
このせいか、日本の深夜の、一部の、ほとんど知ることのない、知られることのない世界の中だけで、僕のような行き場のない人間の気持ちを多少なりとも、浮かび上がらせてくれる灯籠のような創作品の枠を超えて、世界の至る所で、無邪気にも拍手をしていく人々が産んだ。
だけどだ、これだけの創作品としての力と美しさを持っているのに、どうしても、末端の創造者まで、お金が回らない。何億ヒットしたとか、Netflixか何かで世界一位を取ったとか、これだけ威勢のいい話を聞くのに、どうも、プラックな話も絶えない。
お金が流れ、それぞれが見合う生活を手に入れられる、仕組みが滞っていのかもしれない。業界の内面は門外漢なので、もちろん全く預かり知らぬことだけど。偉そうには言えない。
こんなことを考えると、どこかの時点で、本人がダメでも、どこかの誰かが、感動を勘定に変える仕組みが必要なのだろう。きっと、いや、絶対に。
花火や桜のように、一瞬で華やかに、完璧に、感動を与えてくれるだろうけど、栄養がなければ命が保てないし、次が産まれず育まれない。一番いいのは、お金のことに全く縁がなさすぎる天才を、お金のことは任せてくれと胸を叩いて誇らしげに宣言する、商売人が組むことなんだろう。
お金に縁のない僕にも、そんな金に変えてくれる天才的な商売人が現れないだろうか。虫のいい話だけど。まあ、いい創作品を産んでからの話だけど。