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所長日記2 : 自己限定しない

「所長日記」というタイトルを考えたときに、参考にさせていただいたのが、私が毎朝Youtubeで拝聴している円覚寺 横田管長の「管長日記」です。

私自身は、仏教も禅宗もまったく分からないのですが、宗教といった枠組みを超えて本当に学びになっています。
特に多く学び感じるのが、横田管長の日記を通じて、新たな”人”と出会えることです。

例えば、日本から米国に禅を広めた鈴木大拙さんや、「念ずれば花ひらく」の詩で有名な坂村真民さんなど。
単に私が知らなかっただけで元々著名な方々なのですが、知る機会を与えていただいて感謝しています。

今日は、その管長日記から引用して、お話したいと思います。

この日記では次のような言葉が述べられています。

我々が本来皆仏である、皆仏心を具えていると、禅では説いているのですが、言葉を換えれば、我々は皆無限の可能性を持っているということでありましょう。

第389回「まだまだ可能性がある」2022/1/30

私たち一人ひとりが無限の可能性をもっていること。
これは、言葉では理解できても、信じて行動することは本当に難しいことだと思います。

私もよく、どうしても「自分ができることはここまでだ。」と自己限定してしまいます。目標を立てるということも、「ここまでができたらいいかな」となってしまいます。


そんな自分のマインドセットを、変えてくれた(変えないといけないと思わせてくれた)言葉が、中国古典の荀子という本に載っていました。

足はもって天下を偏行すべし、然もいまだかつてよく天下を偏行せる者あらざるなり。それ工匠農賈、いまだかつてもって事をあいなすべからざることなし。然もいまだかつてよく事をあいなさざるなり。

中国の思想(4) 荀子(徳間文庫)

この文が書かれた章のはじめは「どんな凡人でも禹になれる」から始まっています。禹とは中国の伝説上の聖人の1人です。そんな禹に誰でもなれるとはいかなることでしょうか。

それが上記の文につながってきます。
上記の文の現代語訳を、同じ書籍から引用します。

足は全世界を隈なく歩き回ることができる。だからといって、実際に全世界を歩き回った人はいない。また、職人と農民と商人とか、相互に職業を取り替えることはできるはずだが、実際には、転職の例はない。

中国の思想(4) 荀子(徳間文庫)

多分、この文章自体は、そこまで荀子は意味があって書いたのではないかと思います。なぜならその後に「可能性があるということは、実際にそうであることと同じではない」と1度否定するために書かれているからです。

しかし、現代に生きる私達にとっては、とても大きな意味を持つように感じました。なぜなら、現代には「全世界を歩き回った人」も「転職」も、(同じレベルではないですが)当たり前に存在しているからです。

それならば、どんな凡人であっても、伝説上の聖人になることだって不可能ではない。そんな風に思わせてくれます。


改めて、横田管長の管長日記に戻りますが、最後に次のように締められています。

それと同時にまだまだ知らないことがある、気がついていないことがあるということは、まだ発展する余地もあるということでしょう。

そんなことに気がつくと、まだまだ自分にも可能性があるのだと思います。

第389回「まだまだ可能性がある」2022/1/30

自分が知らないこと。それこそが、自分が成長していく・発展していく余地と考えられるか。

そんな自分になっていきたい。そんな思いを込めた本日の所長日記でした。

では、また。
次回の所長日記で。


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