漢文が難しいいいい!!!(日記)
はい。漢文。定期的に高校教育には入らないよと言われるあの漢文。古文・漢文のあの漢文。これを、高校を卒業して5年たつ今、やはりしっかりと勉強していれば面白かったろうなぁと思うのです。人生が。
何も、教育界隈の議論に一石を投じようなどとは思わないのです。ですが、こんなものを勉強していても何の役にも立たない、と言う言葉を言い訳にして本気で勉強しようとは思わなかった僕の後悔の叫びを聞いてください。
僕は高校時代、自分の思う「有益な」教科である生物や英語のような教科は企画的よく頑張っていました。片言ながら一人で海外旅行をするのに十分用を足せる位には英語が出来ますし、生物に関しては出せる話はありませんが、大学に入ってからは中退するまで心理学の勉強をしていたので、それなりに近い分野ではありました。
そんな僕は、その代わりに古典や漢文、社会科の点数は酷いものでした。赤点もちょくちょくありました。数年前まではそれでも良いと思っていましたが、ここのところそれを後悔するようになりました。今回はその漢文の部分についてです。
さて、僕が後悔するようになったのは、一人のブロガーと絡むようになってからのことです。彼はブロガーであり、仲のいい飲み仲間です。ネット経由で知り合ってこの夏初めて会ったのですが、何度か一緒に飲みに行くうちに仲良くなりました。そんな彼は漢文で書かれた文書を日本語で書き下してブログに掲載しています。それを僕は見ていました。
その時点ですごくかっこいいなと思いました。僕は「世界の名著シリーズ」の論語を一通り読んだのですが、日本語で書かれた、いわば翻訳バージョンを読んだだけです。しかし、彼は違います。漢文で読んでいるのです。厳密にはそれを自分で翻訳して読んでいると言うことですが、ここには大きな差があります。
自分の手で翻訳する、ということは、本来の文章に込められた文字と文字の間に込められた意味を直接感じることが出来るのです。僕が読んだやり方だと、もちろん文と文の間に込められたニュアンスまで解説されているのですが、しかしそこには翻訳者、解説者のフィルターがあるのです。特に論語ほど有名な本であれば、いくつもの読み方があり、受取手によってその解釈は様々です。それを、僕は彼らを通してしか知ることが出来ず、自分なりの解釈をすることすら出来ないのです。それを僕はとても悔しく思いました。
さて、もうひとつ悔しく思った体験を共有しておきましょう。それは僕が今年、人生で初めて正倉院展に行ったときの話です。そこで僕は、いくつかの仏教関係の書写の展示を見ました。漢文に翻訳されたお経の書写なので、そこに書かれているのも大量の漢字だけです。展示なので当然それがどういった物なのかという解説はあるのですが、しかしそれだけでは内容までは掴めません。何かありがたい物なんだなぁという程度でした。僕はやはり、先述のような悔しさを覚えました。
さてさて、僕は高校時代、あまり漢文の授業が好きではありませんでした。というかむしろ、嫌いな人でした。しかし、高校時代にもう少し文法だけでも頑張っていれば、正倉院展で漢文体の巻物を楽しめたのかなぁとも思うのです…。