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千の葉っぱと青い森


最近やけに、縄文が気になります。もちろん以前から興味はありました。
東国の古代史を調べているくらいですから、縄文に興味がなければ続きません。
それが近頃、まるで何かにとりつかれているかのように、寝ても覚めても縄文が頭をよぎるのです。

しかしながらやっかいです。縄文時代と一口に言っても10000年続いていますから。
遺跡は全国津々浦々に広がっていますし、出土品も多種多様。どこから手をつけていいのかわかりません。

とにかくまあ、10000年続いた歴史に挑むわけですから、あまり大それたことは考えず、重箱の隅をつつくように、慎ましやかに調べていきたいと思います。
とりあえずは今住んでいる場所の近くから、始めていきたいと思います。

千葉に集結する古代氏族

僕が住んでいる千葉県は古代からいろいろな人々がやって来ます。館山にきた阿波忌部に始まり、芝山に住んだ秦氏。鹿嶋で勢力を持った多氏はもちろんのこと、袖ヶ浦に漂着した古代インド、マガダ国のお姫様なんて方もいます。
県を代表する神社、香取神宮は物部氏が祭祀をしていましたし、その一族に養子として入り込む、藤原氏も見逃すわけにはいきません。
ましてや家の近所には蘇我駅という蘇我氏ゆかりの地域もあります。

JR蘇我駅

古代史の有名人たちがみんなこの地に集結します。不思議ですね、千葉県。
まあ、チバニアンという77万年前の地層が発見されるくらいですから、相当古い土地なのでしょう。
というわけで今回は、古代の人々が千葉を目指した理由について探っていきたいと思います。そのヒントは近頃気になってしょうがない、縄文にあると思っています。

三内丸山を築いた集団

さて、縄文といえばまずは三内丸山遺跡から話を始めなければなりません。現在発掘されている中でも最大規模の縄文遺跡です。

三内丸山遺跡

青森にある縄文時代前期~中期(現在から約5900~4200年前)の集落跡ですね。
僕はこの集落を築いた民族が、その後どこに行ったのかを調べています。

縄文人の移動経路

人の動きを辿る際、遺跡の分布図というものが非常に役立ちます。人は移動する最中、生活した痕跡をその土地に残しますから、遺跡を辿っていけば当時の人々がどのように移動していったかある程度把握できるのです。

こちらのブログではそういった遺跡を元に縄文の交通路を推測しています。
僕はだいぶ参考にさせていただいております。

縄文遺跡密度図から作成した交通路パターン作業仮説(ar2014093001) 「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」掲載縄文遺跡密度に加筆
ブログ 花見川流域を歩くから引用

上の地図も前述のブログから引用させていただいたものです。
縄文遺跡の密集度を元に当時の人々の移動ルートを検証した図になります。黒い点線が移動ルート、色の違いは半径20kmあたりの遺跡数の差を表しています。
遺跡とはその地に人が生活していた痕跡を現代に伝えるものです。図を見てもわかるように、縄文時代、この島の人口は東の地域に集中していました。
遺跡の密集度合いが特に高いのは青森、宮城、そして東京湾沿岸地域です。つまり縄文時代の都会とはこれらの地域が該当します。
ただしこのヒートマップは縄文全期、約10000年を対象としていますから、実際には前期・中期・後期等の時代区分に合わせて人の集まる地域は変化していったと思われます。その間に気候変動もあったでしょうし、なにより人は移動する生き物です。
また縄文人は海洋民族ですから、陸路だけで移動していたわけではありません。
おそらく大部分の人々は船を使って海路を移動したでしょう。
それを裏付けるように密集度合いの高い地域は沿岸部に多く見られます。

三内丸山遺跡のあった青森市も遺跡が密集してますね。あれだけの遺跡があった場所ですから、多くの縄文人が暮らしていたことでしょう。
問題はその地で暮らした集団がその後どこへいったのかということです。
中には海外に行った人もいるでしょう。縄文土器は南米のバルディビア遺跡など、海外でも発掘されていますので。
でも僕は、大部分の人々は列島を南下していったと思います。なぜなら縄文文化を10000年継承してきたのは他の誰でもなく、この島の住人なのですから。
図を詳しく見ていくと、ヒートマップで密集度の最高値、青を表示する地域が全国で1箇所だけ存在します。
それが僕の住んでる千葉県なのです。

縄文の都、千葉

あまり知られてはいませんが、千葉県は縄文人が残した貝塚が全国で最も多い県なのです。
貝塚は一般的にゴミ捨て場として考えられがちですが、葬られた人の骨、ペットとして飼われていたであろう犬の骨なども出てきており、短絡的に廃棄物の処理施設と解釈するのはいかがなものかと思います。
まあ、定義はともかくとして、いずれにせよ貝塚はその地に人が定住した痕跡を現代に伝えるものです。日々の生活で出たものを集めていた場所ですから。
その数が全国一である千葉県は、それだけ多くの縄文人が生活していた場所であると言えますね。貝塚の数と規模の大きさは、そこで生活する人口の割合に比例するはずなので。
そんな千葉にある日本屈指の規模を誇る貝塚が加曽利貝塚です。

加曽利貝塚は、異なる時期に出現した2つの環状集落によって形成された典型的な環状(ドーナツ形)および馬蹄形状の貝塚で、直径約130メートルの北貝塚と、長径約170メートルの南貝塚が連結し、全体としては8の字形をしている。面積は約13.4ヘクタールで世界でも最大規模の貝塚である。現在、敷地は加曽利貝塚公園として管理されており、千葉市立加曽利貝塚博物館が設置されている。貝塚周辺の一帯には縄文中期の小型貝塚や住居跡が広く分布している。
この場所では約7000年前の住居跡が発見されているが、当時の貝塚は残されていない。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期である。加曽利北貝塚は縄文中期(約5000 - 4000年前)に作られたものである。初期には小規模な貝塚と住居があったが、住居跡に貝や土器片などを廃棄・集積し続ける「廃棄帯[3]」とよばれる堆積物層が形成されていった結果、後にその上に直径約130メートルの環状の貝塚が約1000年かけて作られた。縄文後期になると北貝塚は利用されなくなり、その南側に南貝塚が作られ始めた。加曽利南貝塚は縄文後期(約4000 - 3000年前)のもので、約1000年かけて長径約170メートルの馬蹄形の貝塚が作られた。イヌの骨が人間とともに葬られていることが確認され、話題を呼んだ。

加曽利貝塚 概要 wikipedia より   

この貝塚は使用時期の異なる北と南の2つの貝塚から成り立っています。
巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前で、まず北側が作られました。
そして1000年ほど使用し、直径約130メートルのドーナツ型の貝塚になったところで今度はその場所を放棄し、南側に新たな貝塚がつくられ始めます。
南側の新しい貝塚は1000年かけて北側より大きい長径約170mの貝塚が作られました。
つまり加曽利貝塚に住んでいた縄文人は約4000年前にそれまで使用していた北側の貝塚を放棄し、南側に新しい貝塚を作り始めているのです。
僕はこの時、人口の増加があったのではないかと考えています。人が増えればそれだけ廃棄物も多く出ますから、手狭になった貝塚を放棄し、南側に新設したのではないかと思うんですね。
そしてその約4000年前に起こった人口増加とは、出生率の向上や死亡率の低下によるものではなく、人の移動によるものだったと考察しています。

ここで話を青森のほうに戻しましょう。
現時点までの調査で三内丸山遺跡は約5900年前から約4200年前まで定住生活が営まれていたと推測されています。
!!!この文言で僕はピンときました。三内丸山遺跡に人が住まなくなった時期と、加曽利貝塚の住人が北側を放棄し、南側を新設した時期がぴったり重なるんですよね。

これは偶然ではないと思います。

裏を返せば約4200年前より先は、三内丸山の人々はその地を離れたということです。縄文の移動ルートの図を参考にすれば、間違いなく南下しているでしょう。
もちろん三内丸山遺跡の住人全員が加曽利貝塚に来たわけではないと思いますが、当時青森から大規模な人の移動があり、その人たちは列島を南に下り、宮城を経由して一部は関東平野の縄文人たちと交わっていったのではないかと思うのです。
そうした人口の増加を考慮して加曽利貝塚に住む縄文人は貝塚を新設したのではないでしょうか?

この仮説が正しければ、太古の時代にあの三内丸山遺跡を築いたほどの技術力を持った集団の一部が、関東に移り住んだことになります。
もしその移住先が千葉の加曽利貝塚であったなら、のちの時代にこの地に集う古代氏族の動きにも納得がいくというものです。
加曽利貝塚は日本最大級の貝塚ですから、縄文のある時期、大都会となったこの場所に人やモノ、情報や技術が集まってくるのは自然の流れだと思います。

土偶はなぜ造られ、そしてなぜ破壊されたのか?

このように貝塚を調べているとさまざまな想像を掻き立てられます。縄文のタイムカプセルと言われるのもうなづけます。
そんな貝塚から多く出土される遺物のひとつに土偶があります。加曽利貝塚からもいくつか発掘されています。

みみずく形土偶と山形土偶 加曽利貝塚出土

土偶は女性をかたどったものが多く、そのほとんどが破壊された状態で見つかります。
壊れたから破棄した。長い間土に埋まっていたから破損してしまった。
さまざまな説がありますが、土偶はそもそも壊すことを前提に作られたとする論説のほうが、現在は主流のようです。
そんな謎多き土偶ですが、出土する遺跡のほとんどは東日本にあります。
ほぼすべてが人の手により意図的に壊されたような状態で発掘されます。
何のために壊したのかは縄文人に聞いてみないとわかりませんが、この壊される土偶と類似性を持つ神話が世界各地にみられます。

おこがましいのを承知で超訳すると、
「女神を切り殺したら、その死体から食物が生まれた」
という内容です。いわゆる食物起源神話のひとつです。
日本神話にお詳しい方でしたら、似たような話をいくつか聞いているでしょう。
オオゲツヒメやウケモチの話ですね。これらの女神はスサノオやツクヨミに斬り殺されて、その死体からさまざまな食物を生み出します。

僕はこのハイヌウェレ型神話の原型が、縄文の土偶信仰なのではないかと考察しています。
土偶は胸の膨らみを持つ、女性をかたどった造形が多くみられます。そして意図的に壊されたような状態で発掘されます。
すなわち縄文人は地母神のような女神の姿を土偶として造形し、それを儀式的にバラバラに壊すことで多産や肥沃、豊穣を祈願したのではないでしょうか。
土偶は貝塚からも出土します。貝塚がただのゴミ捨て場ではなく、儀礼の場であると仮定すれば、縄文人はそこに葬られた生命の再生を祈り、土偶を破壊し霊前に供える祭儀を執り行ったと考察できます。

僕はこの縄文の土偶信仰が海を渡って世界中に広がり、やがて各地にみられる食物起源神話=ハイヌウェレ型神話になっていったのだと思います。
そしてこの島から世界各地に散らばっていったハイヌウェレ型神話を信仰する民族が、長い年月を経て千葉に戻ってくるという歴史がこの地に見られる古代有名氏族の痕跡なのではないでしょうか。
加曽利貝塚が残る千葉に彼らが集うのは、自分たちの信仰の源流が、他のどこでもなく、縄文の地にあるからです。
彼らは母なる女神との再会を果たすため、この地に舞い戻ったのかもしれません。

さきほどオオゲツヒメとウケモチの名前が出てきましたが、これらの神々は日本におけるハイヌウェレ型の女神です。ともに御食津神という食物神の代表格として神話に登場します。
補足するとオオゲツヒメは阿波忌部の女神であり、ウケモチは秦氏の女神であるウカノミタマと同一視されています。
この2氏族は縄文より後の時代にやってきて、多くの足跡を千葉の各地に残しています。

世界中、さまざまな民族の信仰の起源を辿っていくと、そこには地母神崇拝の影響が見られます。それは日本においても同様だと言えるでしょう。僕は古い氏族ほど、大地の豊穣を司る地母神を崇めていたと考えています。

原始の神とは女神だったのかもしれません。そしてその女神とは、この島から誕生したのかもしれません。

いずれにせよ遠い昔、この島で執り行われていた土偶による祭祀が縄文の海洋民族により世界中に伝播し、各地のハイヌウェレ型神話を形成していったのだと僕は考察しています。

縄文人が貝塚に託した想い

さて、ここまで書いてきた記事の論調からも明白ですが、僕は貝塚をゴミ捨て場とする見解に異論があります。異論というと語弊がありますね。嫌悪に近い感情です。
やっぱり縄文の人々は貝殻を捨てたのではなく、埋葬していたのだと思います。
言うなれば貝塚とは現代におけるお墓のような埋葬施設だったということです。

縄文人は食物となって自分の命を繋いでくれた貝に対して、また生まれ変わって自分の元に戻ってきてくれるようにと、そんな願いを込めて弔っていたのではないでしょうか。

貝塚からは人の骨や、飼っていた犬の骨まで出てきます。そこから推測できるのは、貝と人間を同格に扱っていたという縄文人の価値観です。つまり彼らは親しい人や愛犬が亡くなったときに抱く感情と同じものを、自分が食した貝にも感じていたということです。
僕はこういった心の在り方が、縄文思想の根幹をなすものであると思います。

貝塚とは縄文人にとっての埋葬施設であり、だからこそ彼らは土偶という祭具を用いて死を弔い、のちの再生や豊穣を祈願したのでしょう。
また彼らはあらゆる生命、さらには人を助けた道具まで、それらすべてを区別なく同じ「墓」に入れました。
そんな彼らの思想を体現する貝塚は、僕たちが想像する以上に神聖な場所であり、聖域だと言えるでしょう。

資本主義が限界を迎えようとしている現代。
この時代に貝塚を訪れる人々は、その場所に宿る想いの高潔さゆえ、何かしらの影響を受けるかもしれません。

少なくとも僕は戒めにも似た感情を、この胸に抱くことになりました。   

幾重にも積み重なるおびただしい数の貝殻は、そこに太古の人々が生きた証を残します。
縄文の人々が祈りを捧げた貝の山。
その異様なまでの様相は、まるで僕たちの遺伝子に折り重なった、膨大な記憶を象徴しているようですね。

千の葉っぱと青い森。

縄文を支えた豊かな森の精霊は21世紀を迎えた今もなお、それらの地で微笑を浮かべていることでしょう。

それはきっと僕たちが赤子の時代に垣間見た、母親の表情と同じもの。

令和の時代を千葉や青森で暮らす人々に、蘇るといいな、縄文の魂が。

この島に残る遠い過去の思い出は、視界から消えた女神の姿をいまだ残像として僕たちの心の奥にとどめてくれます。


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