マチュピチュ村を創った日本人
僕のnoteでは縄文海洋民族が世界に散っていった歴史を考察しています。
そこには僕たちの遺伝子に眠る記憶、そして人類はもともとひとつだったという痕跡が垣間見えるからです。
そしてその歴史を辿っていくことは、これからの未来において最も大切なことだと思っています。
変わりゆく世界。その未来においてまず先に思い出さなければならないことが、
古代にはたくさん眠っていると僕は本気で思っています。
今回は縄文と南米のつながりについて。
1969年、南米エクアドルの地下遺跡から文字の書かれた黄金版が発見されました。
その碑文には「イサクとヨセフが記す、ヤハウェを我らの神と崇めよ」という内容が書かれているのですが、使われている文字に世界中の研究者が驚きます。
なんと古代の出雲文字だったのです。
南米で見つかる出雲文字で書かれた黄金版。そして内容は旧約聖書そのものです。
まさに人類も宗教も元来一つだったという事実を証明する遺物です。
南米にも古代アンデス文明という古い文明があり、実際にエクアドルのバルディビア遺跡では5000年前の縄文土器が発見されています。
この事実は縄文人が南米にも到達していた証拠となるでしょう。
そして話は近代へと移ります。
1917年、福島の農家出身の若者がペルーに移民として渡ります。
名を野内与吉(のうちよきち)と言います。
彼は1923年からマチュピチュに定住し、ふもとの村の開拓に乗り出します。集落に初のホテルを建設し、鉄道を引いたり、温泉を掘り当てたり、村の発展に尽力をつくしました。
与吉はそこで得た利益をすべて村に還元し、人口の増えた村をどんどん発展させていきました。しかしそのせいで晩年はお金に苦労したようです。
やがて与吉はマチュピチュ村の初代村長に任命されます。その後も村の発展に生涯を捧げました。この村には皇族である三笠宮崇仁親王が訪れています。
その時の話題が日本で新聞記事になり、与吉の消息を知った親族が帰国の手配を整えます。
そして与吉78歳の時、じつに出国してから52年ぶりに日本へ帰るチャンスに恵まれました。
出身地の福島県大玉村で歓待を受けた与吉。
親族は高齢になった与吉を思い、標高の高いマチュピチュ村へ戻らずにこのまま日本にとどまるよう説得しました。
しかし与吉は愛する家族を残していることを理由にペルーへと戻ります。
そして2ヶ月後、最終的にその地で亡くなりました。
現在、マチュピチュを訪れる観光客で賑わうこのふもとの小さな村は、
かつて一人の日本人が作った村なのです。
ではなぜ与吉は日本から遠く離れた南米のこの小さな村に、その生涯を捧げたのか?
僕はそこに遺伝子の記憶が関わっているのではないかと思います。
自分達の遠い祖先が南米に渡り、その土地を開拓した記憶。
それが遺伝子に組み込まれているからこそ、彼はマチュピチュに生涯を捧げることができたのではないでしょうか。
遥か昔に海を渡った縄文の魂が、与吉を突き動かしていたのでは?
そう考えると胸が熱くなります。
与吉の功績は現地でも讃えられ、2015年、マチュピチュ村は同村にとって初となる友好都市協定を与吉の故郷である福島県大玉村と締結しました。
縄文からはるかに時を超え、現代になって再び目覚める遺伝子の記憶。
僕はこの話が大好きです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?