ハプスブルク家に伝わるA.E.I.O.U
14世紀中頃、ヨーロッパではペストが流行し、たくさんの人が亡くなりました。人口の約3分の1が死亡したと言われていますから、その被害はコロナの比ではありません。
そんな欧州の人口が激減した時代、王室も跡取りの問題に悩まされるようになります。王室の後継者ですから、誰でもいいというわけにはいきません。しかるべき血筋の人間である必要があります。
そこで白羽の矢が立ったのが日本の皇統です。
なぜ日本なのかは前回の記事で書きました。ご興味ある方はご参照ください。
ヨーロッパ王室の危機を救う日本の皇族
断絶の危機に陥ったヨーロッパ王室の血統を守るため、日本から伏見宮治仁王(はるひとおう)がハプスブルク家に入ります。
僕が聞いた話では、どうやらこの時和歌山の丹生酒殿神社から、消毒のための水銀とアルコールが欧州に提供されたようです。そしてその時提供されたアルコールが元となり、のちの時代にロンドンでオールドパーが作られた。そんなロマンのある話を聞いたことがあります。
やがて治仁王(はるひとおう)はオーストリアでエルンスト鉄公となり、その子供は後にハプスブルク家初の神聖ローマ帝国皇帝となるフリードリヒ3世です。
そのフリードリヒ3世について興味深い説話が残っています。
フリードリヒ3世が残したサイン
彼は建造物や身の回りの品にA.E.I.O.U(アエイオウ)という謎の文言を残しています。このアエイオウについてネットでは様々な解釈がなされていますが、
僕はこの標語の真意とは、フリードリヒ3世が父から教わったであろう日本語の「あいうえお」をアナグラム化したものでないか?と考察しています。
言霊を重視するこの島の言語、その母音を並べたアエイオウ。そしてそれを好んで用いたフリードリヒ3世に、僕は日本の面影を感じてなりません。
そんな彼も最初はわずか3州の貧しい領主から始まり、神聖ローマ皇帝即位後も国内には反対派が多く、政策も失敗続きで前途多難な道のりでした。
しかし凡庸な君主で終わるだろうという大方の予想を裏切り、53年間も皇帝であり続けました。
決断力に欠け、臆病で気が弱いはずの皇帝が、なぜ並み居る強敵を退けて、その座を長期間保持することができたのか?
僕はそこにこの「A.E.I.O.U」の言霊の力が関係しているのではないかと考えています。彼は自身の食器などにもこの文字列を刻んだとありますから、よほどこの言葉を大事にしたんだろうと思います。
そして日本の皇室がヨーロッパの王室に入るのは、ハプスブルグ家が最初ではありません。
血でつながる世界の王室
孝徳天皇の子に有間皇子という人物がいます。この有間皇子は謀反を計画したとの嫌疑をかけられ、658年に19歳で絞首刑に処されたと史実では伝えます。
しかし実際は生きていて、フランスのアルザスへ渡ったという話があります。
やがて有間皇子はアルザスでピピン2世となりフランク王国の宮宰を務めます。そのピピン2世の庶子として生まれるのがカール・マルテル、イスラム軍からヨーロッパのキリスト教世界を守った英雄ですね。
で、その子供がピピン3世。カロリング朝を開いた人物です。このカロリング朝は「カールの」という意味です。父親のカール・マルテルから取ったと思いきや、意外や意外、そのカール・マルテルの名前の由来に日本の皇室が関わってくるのです。
カール・マルテルの父親はピピン2世こと有間皇子です。
そして有間皇子の父親は孝徳天皇。
孝徳天皇は諱(いみな:生前の実名)を「軽」といい、軽皇子(かるのおうじ)と呼ばれました。
カール・マルテルのカールとはこの「軽」からきているのだと思います。
だから息子のピピン3世も王朝の名を「カールの」という意味のカロリング朝にした。前回の記事の内容をふまえれば、名だたるヨーロッパの王室がなぜ日本の皇室を尊重し、その血を欲しがったのかわかると思います。
そのくらいこの島の歴史は古く、その遺伝子は世界に広がっています。