自分の気持ちを取り戻したその先へ【ニーゴの過去と未来③:朝比奈まふゆ】
『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク(プロセカ)』のワールドリンクイベント『水底に影を探して』を機に、これまでの「25時、ナイトコードで。」(ニーゴ)のストーリーを振り返りながら、これからのストーリー展開について考えるオタク語りのシリーズです。
第3回は、ニーゴの作詞担当、【雪】こと朝比奈まふゆです。
ひととおりニーゴのメインストーリー・イベントストーリーを読んでるよ、という方を主な読者として想定しています。ニーゴのストーリーを深くは分かっていない、という方も、ぜひご覧ください。
イベント『変わらぬあたたかさの隣で』までのネタバレ全開です。
まふゆのこれまで
完璧な優等生
まふゆは、みんなが認める優等生。
学力は進学校の宮女の中でもトップクラスで、弓道部では都大会準優勝の活躍ぶり。クラスではみんなの推薦で学級委員を務めています。
同級生からも、後輩からも、優しくてしっかり者の美人さんとして慕われていて、先生からの信頼も厚く、家族にとっては自慢の娘。まさに才色兼備・文武両道な完璧優等生です。
しかし、まふゆは、そんな「優等生」であるはずの自分を、本当の自分だと思えていません。みんなが望む優しいしっかり者を演じれば演じるほど、自分はどんな自分でありたいのかが分からなくなっていきます。
周囲の憧れの的である完璧優等生の真の姿は、自分を見失って冷たく暗い水底を彷徨う、儚く苦しげな少女です。自分を見つけたい。その思いにせき立てられ、まふゆは、【雪】として、毎晩、ネットで知り合った顔も名前も知らないサークル仲間と一緒に、音楽を作っています。
そのサークル名は、「25時、ナイトコードで。」、通称「ニーゴ」。まふゆの家族が寝静まった頃に活動を始める意味の合い言葉が、サークル名になっています。
消えたくない
ニーゴの物語は、ある日を境に【雪】がニーゴの活動に参加しなくなったことをきっかけとして、大きく動き出します。
ニーゴとして活動を続けても、OWNとして自分の苦しさを吐き出すように曲を作っても、いっこうに自分を見つけられないまふゆは、生きる意味をも見失い、誰もいないセカイへと引きこもるのです。
しかし、まふゆの心の中にある「苦しくて消えてしまいたい。でも、消えたくない」という想いが、奏たちをセカイへと呼び寄せます。
まふゆは強い絶望を感じているのですが、同時に、確かなものに縋りたいという気持ちを持っています。希望が見えないことに絶望し、期待することを諦めた状況にあっても、希望を持ちたいという想いは、まふゆの心から消えなかったのです。
そんなまふゆに、「救えるまで作り続ける」という奏の言葉が届きます。その救いの言葉は、奏の「ただのエゴ」だったからこそ、まふゆの心に届きました。
まふゆの気持ちに関係なく曲を作り続けると奏が宣言してくれたから、つまり、まふゆが期待しようがしなかろうが、救えるまで作り続けることを奏が請け負ってくれたから、まふゆは、期待しても裏切られるだけだからもう諦めようという気持ちを振り払い、奏の言葉を受け入れることができたのです。
こうして、寄る辺を見出したまふゆは、再び、自分を見つけられる可能性に賭け、ニーゴとして活動を続ける道を選びます。
まふゆとニーゴ
それまで、ネット上で音楽作品を一緒に作るだけの関係に過ぎず、(えななんの自撮りは除いて)互いにアカウントネーム(ハンドルネーム)と声しか知らなかったニーゴのメンバーでしたが、この「OWN」事件をきっかけに、初めてのオフ会を開きます。
リアルでも顔を合わせ、本名を名乗り合った四人は、お互いの人生に、より深く関わるようになっていくのです。
「いい子」じゃなくていい
まふゆにとってのニーゴは、いくつかの意味で特別な場所です。
ひとつは、まふゆ自身が期待しているように、奏たちと一緒に音楽作りを続けることで、いつか自分の気持ちが見つかるかもしれないから。
もうひとつは、「いい子」「優等生」の仮面を被らずに済む場所だから。
まふゆは、奏たちがセカイを訪れたことで、意図せずしてニーゴのメンバーに仮面を脱ぎ捨てた自分を見せることになったのですが、『囚われのマリオネット』以降は、奏と瑞希のアドバイスを受けて、ニーゴのメンバーの前では、思ったこと・感じたことを素直に表現するようになります。
絵名や瑞希、そして奏も、素直すぎるまふゆの言葉に振り回されることになるのですが、そのおかげで、まふゆは、自分の気持ちを表現できるようになっていきます。
あたたかい
そして、もうひとつ大切なのは、ニーゴに居ることで、まふゆが温もりを感じられることです。まふゆは、ニーゴのみんなと過ごす時間の中で、少しずつ、心のあたたかさを取り戻していきます。
幸か不幸か、人の心は、人の想いの温度を感じることができるのです。
自分に向けられる想いが冷たければ、心は凍てつき、凍てついた心は、おのずと温もりを求めます。人の心は、いつでも、自分にとって心地よいと思えるあたたかさを求めています。
奏が両親との幸せな記憶を思い出しながら作った曲を聴いて、まふゆは、笑顔になります。
奏が作った曲には、まふゆに笑ってほしいという奏の想いが込められていました。その想いが、まふゆの心に温もりをもたらしたのです。まふゆが感じたあたたかさの正体は、相手を想う気持ちにほかなりません。
ストーリーが進むにつれ、まふゆは「あたたかい」「冷たい」という言葉で、自分の今の気持ちを表現するようになります。
まふゆが感じている温度は、相手を想う気持ちの強さです。
熱を出して寝込んでいるまふゆのために、慣れない手つきで、おろし金を使ってりんごをすり下ろした奏は、早くまふゆが元気になってほしいと願っていました。そんなまふゆを想う奏の気持ちを、まふゆは、あたたかいと感じたのです。
同じように、幼い頃、まふゆを看病してくれた母親には、元気になってほしいと願うまふゆへの想いがありました。だから、あのときの思い出は、あたたかいのです。
そして、まふゆは、自分が奏の助けになれたことを知って、胸があたたかくなるのを感じます。友だちのためになりたい。その想いは、間違いなく、まふゆ自身の本当の気持ちなのです。
自分の気持ちを見失う
まふゆにとって、自分がニーゴに居る意味は、「自分の気持ちを見つけたい」というものです。
そもそも、どうしてまふゆは自分の気持ちを見失ったのでしょうか。
みんなが喜んでくれるなら
まふゆに異変が生じたのは、中学生の頃です。
勉強ができて、部活動でも活躍していて、優しくて面倒見もいい。そんな周りの評価は、まふゆの普段の振る舞いから生まれたものであり、誇張も修飾もないものでした。
しかし、いつしか、まふゆに対する周囲の認識は、ステレオタイプな「完璧優等生」のイメージへと変化していきます。
期待や賞賛は、まふゆが優秀であることの証であり、それ自体はすばらしいものです。お嬢様学校であり、進学校でもある宮益坂女子の中で、そのような評価を与えられることを、まふゆは誇ってよいと思います。
実際、まふゆはある頃まで、自分の活躍を周りの人が喜んでくれることを、うれしく思っていました。
しかし、期待や賞賛は、本人にとって重荷になることがあります。
まふゆが、周囲の評価を気にせず我が道を行くという性格だったならば、問題はなかったでしょう。
けれども、まふゆは、周囲の期待や賞賛に応えたいと思う優しい子でした。自分ががんばることで、家族や友だち、先生が喜んでくれるのがうれしかったのです。だから、自分がこうしたいと思う気持ちよりも、みんなが自分に望んでくれることを大切にして、まふゆはがんばり続けました。
見つけられなくなった自分の気持ち
「みんなが喜んでくれる」ことに重きをおくというのは、不可避的に、周りのみんなの気持ちを重視することになります。それは、他人の気持ちと自分の気持ちが食い違ったときに、他人の気持ちを優先することにつながっていきます。
そうして、まふゆは、自分自身の気持ちより、周りの期待や希望を優先するようになりました。それは、同時に、自分の気持ちを蔑ろにすることでもありました。
まふゆは、心の中に浮かび上がる感情をすくいあげることを諦めるようになり、まふゆから見つけてもらえなくなった感情は、水中にたゆたったまま、浮かび上がらなくなり、やがて水底へ沈んでいきました。
やがて、まふゆは、自分の気持ちを見つける術そのものを忘れてしまうのです。
こうして、まふゆは、自分の気持ちを見失いました。それは、自分の気持ちを蔑ろにした「つけ」だったのかもしれません。
しかし、大切なのは、いまでも、まふゆの心の奥底にはまふゆの気持ちが存在しているということです。まふゆの気持ちは、決して失われたわけではありません。まふゆは、自分の気持ちを見つける方法を忘れてしまっただけです。
まふゆの気持ちは、まふゆだけのものです。まふゆ自らがそれを捨てない限り、まふゆの心に中に存在し続けています。
お母さんに看病してもらった思い出も、看護師になりたいという夢も、ニーゴのみんなと一緒にいるのが嬉しいという気持ちも、すべて、まふゆの心の中にあります。
「まふゆはいい子」
いくらみんなに喜んでほしいといっても、自分の気持ちを蔑ろにするのは、度が過ぎています。
もちろん、まふゆは、最初から自分の気持ちを見捨てていたわけではありません。まふゆが、周りの期待や希望を優先するようになったのには、相応の理由があるのです。
『迷い子の手を引く、そのさきは』では、幼かった頃のまふゆと母親の姿が描かれました。
幼い頃、母親に連れられフェニックスワンダーランドへ遊びに行ったまふゆは、母親とはぐれ、迷子になって怖い思いをします。
「ちょっとだけなら……」という気持ちで、そばから離れちゃだめという母親の言いつけを破ったばかりに怖い思いをしたという経験が、まふゆの心の中に根付いたのです。
同時に、この経験を通じて、まふゆの心の中に、自分の気持ちに従って自分がやりたいことをしたら、周りの人が悲しんでしまうという考えも生まれます。昔も今も、まふゆにとって、自分のせいでお母さんが悲しむことは、耐えられないほど辛いものなのです。
このようなフェニックスワンダーランドでの経験が、まふゆの原体験です。まふゆの手を引く母親の手が冷たかったことは、その経験をより強く印象づけたことでしょう。
母親の言うことに従わなければ、母親は悲しみ、自分は怖い思いをする。だから、母親が望む「いい子」でなければいけない。フェニックスワンダーランドで生まれたこの考えが、まふゆの行動を支配するようになるまで、それほど長い時間はかからなかったでしょう。
こうしてまふゆは、「まふゆはいい子」という母親の暗示の虜囚となり、やがて、自分の気持ちを見失うのです。
まふゆが「いい子」でないといけないと思う理由は二つです。
一つは、母親の言うことに従う「いい子」でなければ、自分が怖い思いをするから。この感情は、みんなに秘密を打ち明けられないでいる瑞希の感情と、とても近しいもののように見えます。
もう一つは、自分のやりたいことを優先すると、周りの人が悲しむから。とても優しいまふゆは、周りの人が悲しむのが嫌なのです。
そして、まふゆが「いい子」を演じ続けている隠れた原因は、まふゆが才能豊かだったことです。まふゆは、周りの期待や希望に沿った振る舞いが「できてしまった」のです。
「まふゆの才能が、まふゆの不幸を招いた」とは言いたくありません。しかし、才能があるがゆえの苦しみというのも、存在するのです。
本当の自分の気持ち
まふゆがニーゴに託す願いは、本当の自分の気持ちを見つけることです。
まふゆは、決して自分の気持ちを失ったわけではありません。まふゆの気持ちは、まふゆ自らそれを捨てない限り、まふゆの心の中にあります。ですから、まふゆがどんな人間なのかを紐解いていけば、その本当の気持ちが分かるはずです。
「まふゆは優しい子」
まふゆと交流のある人たちがたびたび口にするように、まふゆは優しい子です。
その評価は、決してお世辞や誇張ではありません。本当に、まふゆは優しい子です。「いい子」「優等生」として振る舞っているから優しく見えるのではなく、優しさこそまふゆが生まれもった心根だから、周りの期待に応えるために、自然と「いい子」「優等生」としての振る舞いを身に付けていったのです。
クラスの友だちも、
学校の先生も、
母親も、
同じ部活の仲間も、
そして、まふゆ自身の心の奥底にも、
みんな、まふゆの優しさを知っています。
優しさには様々な在り方があるのでしょうが、まふゆの優しさを形作っているのは、他人を想う気持ちです。まふゆは、自分の行いにより周りの人が喜んでくれることを、切に願っています。
授業が分からなかったと嘆いている同級生に勉強を教えてあげるのも、膝を擦りむいて泣いている女の子を手当てしてあげるのも、どれもまふゆの優しさから生まれた行動なのです。
苦しんでいる人に寄り添いたい
まふゆの優しさが最も強く向けられるのは、困っている人や苦しんでいる人たちです。
もともと持っていた優しさに、風邪で寝込んでいるときに母親が看病してくれたときのあたたかい思い出が加わり、病気で困ったり、苦しんだりしている人の役に立ちたいというまふゆの夢が生まれました。
本当のまふゆは、困っている人や苦しんでいる人に寄り添いたいと願う、優しい心の持ち主です。そして、病気で苦しんでいる人に寄り添うことが、まふゆの夢なのです。
自分がやりたいこと
ボランティアとしてシブヤ・フェスタに参加したことが大きなきっかけとなり、まふゆは、少しずつ、自分がやりたいことを意識するようになります。
この頃から、まふゆに対する母親の監視が厳しくなり、その影響を受けて、二つの異なるまふゆがやりたいことは、「勉強か、音楽か」という一つの選択へ収斂していきます。
母親が自分に望むように「勉強」するのか、それとも、自分の気持ちを見つけるために「音楽」を続けるのか。日々強まる母親の干渉に心を疲弊させながら、まふゆは、無意識のうちに、本当に自分がやりたいことの方向へ歩みを進めるようになります。
逃走
模試をサボってニーゴのみんなとフェニックスワンダーランドへ行き、門限を破ったあの日を境に、まふゆの物語は、明らかに不穏な空気を帯びるようになります。
母親の監視と干渉が強まるほどに、そして、まふゆが嘘を重ねるほどに、まふゆの「いい子」の仮面にヒビが入る音が聞こえてくるのです。その音は、まさに不協和音であり、破局の時が徐々に近付いていることを、否が応でも意識させるものでした。
そして、とうとう、まふゆを巡るニーゴの物語は「その時」を迎えます。
スマホという最後のよすがを失ったまふゆは、ついに、母親へ本当の自分の気持ちを伝え、母親に噛みつきました。それは、話し合いというには程遠い感情のぶつけ合いであり、案の定、母親はまふゆの気持ちを理解することができず、まふゆの苦しさは限界を迎えます。
まふゆは、ずっと被ってきた「いい子」の仮面を脱ぎ捨て、家出するのです。そうして、進級前のニーゴの物語は、区切りを迎えます。
まふゆは、母親の問題から「逃げた」わけですが、それは決して後ろ向きなものではありません。
長らく、自分の気持ちを見失い、自分がやりたいことを忘れていたまふゆは、心が限界を迎えるという極限状態に至って、ニーゴのみんなの支えを得たことで、はじめて「自分がやりたいことをやる」という選択をすることができたのです。これは、紛れもない前進でしょう。
まふゆは、着実に、自分の気持ちを伝えることができるようになっています。
まふゆと母親
ニーゴのストーリーにおいて、ひときわ大きな存在感を放っているのが、まふゆの母親です。
ここまで、まふゆを中心にストーリーを振り返ってきましたが、まふゆの物語を読み解くにあたって、母親の存在を無視するわけにはいかないでしょう。
「まふゆのため」なのに、冷たい
「ナチュラルに価値観を押しつけてくる」まふゆの母親は、典型的な過干渉タイプの親、俗にいう「毒親」です。
本人は、「まふゆのため」と信じて疑わないのでしょうが、その言動は、まふゆの心を優しく縛り付けています。
とはいえ、実際のところ、母親の胸の中には、間違いなく「まふゆのため」という想いがあります。
彼女は、まふゆが疲れているだろうと思いケーキを買ってきて、勉強をがんばっているまふゆのために好きな料理を作り、先生から参考書を勧められたと聞けばすぐに買いに行き、まふゆの様子がおかしいと感じたら躊躇うことなく担任教師に面談を申し入れたのです。
その言動に、「まふゆのため」という気持ちがないというのは、あまりに乱暴でしょう。奏も感じたように、母親は、まふゆのためを考えているし、まふゆを幸せにしたいと思っています。
しかし、同時に、まふゆが、母親の言葉と行動を冷たいと感じているのも確かです。母親はまふゆのことを想っているのに、どうして、まふゆは冷たいと感じるのでしょうか。
見過ごされたまふゆの気持ち
その理由は、母親の言動の中に、まふゆの気持ちがないからです。
フェニックスワンダーランドで迷子になったまふゆを見つけたとき、母親は、怖かったという自分の感情を口にします。しかし、まふゆが怖がっていたことには、まったく触れません。
母親とはぐれて、怖い思いをしたのはまふゆも同じです。
幼いまふゆが感じた恐怖の方が、ずっと強かったことでしょう。それなのに、母親は、まふゆが感じたであろう恐怖には目を向けません。母親は、まふゆ自身の気持ちをきちんと見ていないのです。
奏がまふゆの母親と対話するシーンでも、まふゆの母親がまふゆの気持ちを見ていないことが分かります。
「まふゆの気持ちを聞かないとだめ」という言葉が、うわべだけのものであることは、はっきりしているでしょう。母親は、まふゆの気持ちがどのようなものであれ、母親自身の考えで上書きするつもりでいます。もちろん、まふゆ自身がどうして苦しいのか分かっていないのに、話し合っただけで、まふゆが苦しさから解放されるはずがありません。
結局、奏が看破したとおり、まふゆの母親は、まふゆの気持ちを見ていないのです。
娘の幸せ、親の幸せ
娘の幸せを願わない母親はいません。
奏の母親が奏の幸せを願ってくれたように、あるいは、絵名の母親が絵名の将来を心配しているように、まふゆの母親も、まふゆを幸せにしたいと思い、まふゆの将来を心配しています。
しかし、残念なことに、この母親の想いも、まふゆは冷たいとしか感じられません。やはり、母親の想いの中に、まふゆの気持ちがないからです。
とても当たり前のことなのですが、まふゆが幸せかどうかを決められるのは、まふゆだけです。
「医大に入れなかったら、医師になれなかったら、まふゆは不幸になる」と決めつけるのは、親の役割ではありません。まふゆが幸せかどうかは、まふゆにしか分からないことです。親ができることは、娘ががんばって生きる姿を見守り、寄り添ってあげることだけです。
まふゆの母親を突き動かしているのは、「まふゆを幸せにしたい」という母親自身の気持ちです。その気持ちは、「まふゆに幸せになってほしい」というまふゆを想う気持ちとは異なるものです。
娘であるまふゆの幸せと、母親の幸せは、まったくの別物なのです。まふゆの幸せが母親である自分の幸せ、と考えるのはよいでしょう。しかし、自分が幸せだと思う人生が、娘にとっても幸せな人生だと考えるのは、とても危ないことです。
結局、幸せは、自分で見つけ、つかみ取るものです。たとえ親であっても、他人が本人に代わって幸せを見つけてあげることはできません。
過干渉の原因
「まふゆの身に何かあったらという不安でいっぱいだった」
「将来、まふゆに後悔してほしくない」
「まふゆを幸せにしてあげたい」
そういう気持ちは、自然な親心です。しかし、その気持ちはあくまで親のものでしかありません。
厄介なのは、不安や心配、恐怖といった負の感情が、容易に人の心身を支配することです。母親は、自分が感じている不安や心配に支配されてしまっており、まふゆの気持ちに目を向けることができていません。
そして、まふゆの気持ちを認知できなくなった結果、娘であるまふゆと、母親である自分との境界があいまいになり、本来あるべき境界線を越えて、まふゆに干渉することとなってしまったのです。これが「過干渉」の正体です。
本当に「まふゆのため」を想うなら、まふゆの気持ちを尊重して行動する必要があります。
しかし、まふゆの母親が「まふゆのため」と言いながら取る行動は、実は、母親自身の気持ち――とりわけ不安や心配、恐怖という負の感情――に支配されているのです。
また、親が子どもの気持ちにきちんと目を向けないという事態は、子どもが自分の感情・気持ちを育む機会を奪うことにつながります。現に、母親に大事にされなかったまふゆの気持ちは、やがて、まふゆ自身からも大切に思われなくなり、いつしか、まふゆは、自分の気持ちの見つけ方さえ、忘れてしまいました。
ここでひとつ指摘しておきたいのは、まふゆの母親は、わざとまふゆの気持ちを無視しているわけではないということです。
繰り返しになりますが、母親は「まふゆのため」を想っています。その想いが強すぎるゆえに、自らの不安や心配といった感情に屈してしまい、まふゆの気持ちを認知できなくなっているのです。
母親の物語
なぜ、まふゆの母親が過干渉になったのかは分かりません。
彼女自身も親が敷いたレールを歩む人生を送った過去があり、そうすることが親の役割だと信じているのかもしれませんし、自分の学生時代に悔やむところがあって、娘には同じ思いを味わってほしくないと考えているのかもしれません。
あるいは、過去のコンプレックスの反動から「母親としては完璧でありたい」という強迫的な思いに取り付かれているのかもしれませんし、まったく別の理由かもしれません。
いずれにしても、決して見過ごしてはいけないのは、まふゆの母親にも、彼女の人生があり、彼女なりに悩み、考えながらその人生を送っているということです。
大人だから間違わない、なんてことはありません。
まふゆの子育ては、彼女にとってもはじめての子育てで、間違っていないか、娘のことを想う親になれているかという不安な気持ちと闘いながら、まふゆを育ててきたのでしょう。そして、その不安にのみ込まれ、まふゆの気持ちに目を向けることができなくなってしまったのです。誰かを愛するというのは、とても難しい営みなのです。
いま、まふゆは、大好きな両親がいる家に帰りたいという気持ちと、あの冷たい家に帰るのは嫌だという気持ち、二つの相矛盾する気持ちの狭間で苦しんでいます。
まふゆが家に帰るためには、朝比奈家が、まふゆにとって温かい居場所へ変わる必要があるのでしょう。
そのためには、母親が、まふゆに対する考え方を変えなければいけません。
「まふゆには、まふゆの人生がある」
「まふゆの幸せは、まふゆが決めるもの」
「まふゆ自身の気持ちを、大切にしてあげる」
考え方を変えるというのは、多くの人が思っている以上に、とても大変なことです。たとえば、夫から変わるように言われたとしても、それだけで考え方を変えるのは難しいものです。
母親自身が、まふゆの幸せのために自分が変わるほかないという現実に気づき、それを受け入れなりません。そのためには、時間が必要なのです。
いま、まふゆの母親は、強い後悔と絶望を感じているはずです。いや、そうであると信じたい。
その感情の存在は、彼女の中に、まふゆへの本当の愛があることの証左だからです。そして、その愛こそ、彼女自身が変わるきっかけとなるものだからです。
これまで「まふゆのため」と思ってきた行いが、まふゆを追い詰めていたという現実に向きあうのは、容易なことではありません。
しかし、どれほど苦しくとも、その現実を直視しなければ、自分の考え方を変え、まふゆとの関係を改善できることはないでしょう。まふゆへの愛情が本物なら、どれだけ苦しく、時間がかかろうとも、過去の自分の行いと向き合い、再びまふゆと笑って過ごせる日々を取り戻そうとするはずです。
まふゆのこれから
自分の気持ちをぶつける覚悟
すでに触れたとおり、まふゆが、自分の家に帰るためには、何よりもまず、母親の考え方が変わる必要があるでしょう。
とはいえ、まふゆ自身も、このままの状態でよいわけではありません。
まふゆは、自分の気持ちを相手にぶつける覚悟を持つ必要があります。ニーゴという居場所を奪われる寸前まで追い込まれて、ようやくまふゆは、母親に噛みつき、自分の気持ちをぶつけることができました。しかし、本当は、そんな極限状態に至る前に、まふゆが自分の気持ちを伝えられるのが望ましいのです。
まふゆが覚悟を持つことを妨げるのは、幼い頃の原体験です。
フェニックスワンダーランドで迷子になったときの記憶が、周りの人が悲しまないために、そして、自分が怖い思いをしないために、自分のやりたいことを抑えないといけないという考え方を生んでいます。だから、まふゆは、母親に噛みつくことを怖いと思ってしまうのです。
瑞希と同じように、まふゆも、過去の怖い記憶に心を支配されているのです。
ですが、過去に囚われたままではいけません。自分がやりたいことをやるために、自分の気持ちをぶつける覚悟を手に入れるべきなのです。
そんなまふゆを、きっと瑞希が手伝ってくれるはずです。
また、まふゆの父親は、まふゆの気持ちを知るために奏の家を訪れ、辛抱強くまふゆと向き合ってくれています。そのおかげで、まふゆは、味が分からないことを伝えられました。
少しずつ、まふゆは成長しています。
瑞希や父親の支えとともに、まふゆは、母親と向き合うことを目指して、進んでいくことでしょう。
将来について悩み、考える
湖の中から思い出の品を取り出すことができたように、まふゆは、自分の気持ちの見つけ方を思い出しつつあります。しかし、見失った自分の気持ちとは別に、まふゆには、失ったものがあります。
まふゆが失ったのは、自分の将来について悩み、考える時間です。
中学生の頃、将来の夢についての作文を書いたあの日から、今日までの時間は、本当なら、まふゆにとって、自分の将来の夢――自分が人生をかけてやりたいこと――について考えるための時間となるはずでした。
しかし、自分の気持ちを見失ったまふゆは、自分の将来を悩み、考える時間を失いました。
人生に、ただ一つの正解はなく、自ら目的地を決め、道順を決めなければいけません。人生は、選択の積み重ねにより紡がれる物語です。
それゆえ、よい人生を生むのは、よい選択です。
そして、自分の選択を、満足できる確かなものとするのは、考えて、考えて、あちこち探し回り、失敗し、後悔し、苦しいほどに悩み、ヘトヘトになるまで自分の頭と体を使って考え抜いたという過程にほかなりません。悩み、考えた時間が、正解のない人生を歩むための勇気であり、道標となるのです。
ですから、まふゆが「自分がやりたいこと」を見つけるというのは、心の中に沈んでいたものを見つけ出せばよいという単純なものではないはずです。
過去のあたたかい思い出、かつて抱いた将来の夢、いま自分が感じている気持ち、それらをすべて取り戻したうえで、さらに悩み、考える時間が必要なのです。
この時間は、奏と絵名が向き合おうとしているものでもあります。
二人は、「自分がやりたいこと」がはっきりしている分、まふゆより進んでいますが、それでも、自分の将来について悩み苦しみ、深く考え込んでいます。
自分の気持ちを取り戻し、その気持ちをぶつける覚悟を手に入れたまふゆが、自分の将来について悩み、考えるときには、きっと、奏と絵名が支えとなってくれるはずです。
まふゆの未来に願うこと
まふゆの物語は、自分の気持ちを見つけたところで終わってよいものではありません。まふゆはこんなのにも苦しんできたのだから、もともとの想い・本当の自分を取り戻すというところで終わってほしくないのです。
まふゆには、この苦しみから、失ったものを超える希望と未来を手に入れてほしい。
かつての夢のまま、看護師を目指すという道もあるでしょう。
誰よりも患者に寄り添える医師を目指すというのも、まふゆらしい将来だと思います。
あるいは、看護師でも医師でもない選択肢だってあるでしょう。奏と一緒に音楽を作り続けるという道だっていいのです。
自分の気持ちを取り戻したその先で、まふゆが、自分の将来についてどのように悩み、考え、どのような選択をしたのかを知りたいと、強く願っています。
そして、もちろん、まふゆが一番苦しかったときに寄り添って、支えてくれた大切な仲間たちのことを忘れてはいけません。
本当の自分を取り戻したまふゆは、ニーゴの三人の幸せを何よりも強く願うはずです。それぞれの苦しさを抱えながら生きているニーゴのメンバーに寄り添い、苦しみの先に見える光へと導いてあげようとするはずです。
奏がお父さんのような作曲家を目指すために、絵名が才能ある人たちと渡り合っていくために、瑞希がいつまでも「カワイイ」を好きでいられるために、そのために必要な大切なピースは、きっと、まふゆが持っています。
まふゆの多彩な才能は、本来、家族や友人を幸せにするべきものです。
まふゆが、その多彩な才能と、もともと持っていた感受性、そして優しさを伸び伸びと活かして、豊かな人生を歩んでいける日が来ることを願っています。