私は犬コロ
聖書箇所
9/8 マルコによる福音書 7:24-37
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
証:私は犬コロ
皆さんは犬派と猫派だったらどっちですか??
ボクは小さい頃に犬を飼っていたので圧倒的犬派です。ワンコは良いですねホントに。癒されます。
ところが人類は犬と複雑な関係にあります。猫と違って犬は狂犬病という恐ろしい病気を持っているので駆除の対象になってきました。それだけでなく飼い主に忠実という性格は一転して軽蔑の対象になることもあります。ボクは韓国語が少し出来るのですが、韓国語で"クソ野郎"を意味する개새끼という単語は直訳すると犬野郎という意味です。日本でも時代劇をみたりすると"貴様、幕府の犬か!"なんてセリフを聞いたり"痴話喧嘩は犬もくわない"なんて言葉もあります。
そんな中で今日出てくるシリア·フェニキアの女は自らを犬に例え、パン屑で良いから下さいとへりくだります。
"良いクリスチャン"は、パン屑ですらこれ程の恵みを神は与えてくださるのか…!と言うかも知れませんが、ボクはこの箇所が好きになれませんでした。かつてのイスラエルの領地の出身である異邦人の女が帝国主義にへりくだり、ユダヤ人であるイエスが尊大に恩恵を与えてるように見えたからです。
そんなボクですが、関係無い所でとある詩に出会いました。朴烈という、大正時代に韓国独立を目指して運動をしていた人が書いた詩です。
敢えて引用させてください。
"私は犬コロだ。空を見ては吠え、月を見ては吠える。しがない私は犬コロだ。 位の高い貴族の股から熱いものがこぼれ落ちて、私の体を濡らせば、私も彼の足に勢いよく熱いものをかける。 私は犬コロだ"
彼は出自によって差別される自らを、また無駄だと思ってもこれしかないと抵抗し続ける自らの熱狂を犬コロと表現しました。
ボクはこの詩を知って、シニアフェニキアの女性が自らを犬と表現した時にこのような気持ちであったのではないかと想像するようになりました。犬コロでもプライドがあって、意地でも食らいついて離さない。
ルターはこの女性を"この女はヤコブだ"と言ったそうです。ヤコブとは創世記という本に出てくる人で、神様とレスリングをして何と勝利し、神から祝福を頂いた人です。
多くのクリスチャンが神の愛や隣人愛を語ります。また多くの日本人が和を以て貴しとなすとします。それは正しいかもしれません。ただボクは皆さんの前で敢えて言います。ボクの神はヤコブの神でありシリアフェニキアの神であると。神と戦って初めて愛や祝福が見つかると。
ボクは犬コロです。届かない神とレスリングをして、届かない正義に手を伸ばしたいと思っています。この吠えるだけの犬コロに神は聞くための耳と話すための口を与えて下さいました。
ボクは犬コロです。これまでもこれからも犬コロです。ボクはパンが無いならケーキを食べるような人生は送らないでしょう。でも今なら堂々と言えます。ボクにとってこのパン屑は永遠を生きるのに充分だと。