便器の底からでも


聖書箇所

8/11 ヨハネによる福音書 6:41-51 新共同訳‬
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」


証: 便器の底からでも


永遠の命とはなんでしょうか。キリストの復活とともに天国に行くことでしょうか。パウロは(1コリ15:19)"この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です"と言います。永遠の命、復活を信じなければ惨めですが、しかし理解を越えている事は間違いの無いことです。
永遠の命に対比されるのは罪や死です。罪から死を定められた私達は死を恐れます。罪によって死は不可避であり、同時に私達はまた罪を犯してしまうからです。それ故に少なくない人々が宗教的戒律を守ったり、逆に享楽に浸ったりします。


しかしイエスは死から復活し、ルールや逃避ではなく、愛によって死に打ち勝ちました。聖書にもこう書いてあります。(1コリント15:54-55)"死は勝利に飲み込まれた。死よお前の勝利はどこにあるのか。 死よお前のとげはどこにあるのか"

もちろん私達の肉体は死を免れる事ができません。キリストを信じたから安寧の死を迎えるとも限りません。死は常に過酷な現実で、ボクはそれを祖父母の死や自分の少なくない入院や急性アル中で震えがとまらなかった居酒屋のトイレから垣間見たりしました。

では勝利とはなにか。もう束縛されない事ではないでしょうか。肉体が止まる死だけではなくストレス、不安、悲しみ、絶望など私達の精神や魂を死に向かわせる暗闇から解放され、それらの恐れに捕らわれ留まる事なく、満たされた、永遠(aiónios)という明日に向かって生きることではないでしょうか。‭聖書にはこう書いてあります。(1ヨハネ4:18) "愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します"と。

神は命であり世を生かす肉であり、パンです。日本には一宿一飯の恩なんて言葉がありますが、今日はボクもトイレではなく、静かに自室で神にこの恩を感謝したいとおもいます。


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