腹痛が痛いとき



聖書箇所


7/21 ‭マルコによる福音書 6:30-44‬
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。


証:腹痛が痛いとき

今日この箇所を説教する人は確実にここに触れます。それは"大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ、色々と教え始められた"という部分です。これはまさに福音、神様の良い知らせの結実です。この憐れむという言葉はギリシャ語で"ハラワタする"という意味です。日本語でもハラワタが煮え繰りかえるという言い回しもあるように、ハラワタは人間の感情の宿る部分であり、憐れみはもちろん怒りや悲しみなど、感情が溢れ出す事をギリシャの人はハラワタすると表現したようです。イエスはハラワタが飛び出すような締め付けられるような激しい憐れみを覚え、御自身で教えを説かれました。ここに神の愛と恵みがあります


実はおととい大学時代の友人と話していたのですがこう言われました。"君の話を聞いてると聖書の勉強をして人生を頑張ってって努力の話の様に聞こえるけれど、それならどうして宗教が必要なの?"と聞かれました。

僕は"3つのソラ"や奴隷意思の様な難しい話も触れながら返信したのですが内心とても驚き困惑しました。僕の説明が下手過ぎて恵みを伝えられていなかった事もそうですが、同時にハラワタしてしまったからです。その友人は哲学や宗教などもある程度知っていて飼い主を探して、そして飼い主を"選ぼう"としていました。

僕もまた教会に通い、聖書を読み、良いことをしたいと願っています。しかしイエスを追いかけて、イエスより先に目的地につく程イエスを求めてた人々ですら飼い主が居ないようだとしたら、僕程度で飼い主が居ると言えるのか考えてしまったりもしました。


こうして僕も友人も頭でっかちになり罪をおかしました。自分で神を選ぼうとしてしまったのです。また神の誠実を疑ってもいました。しかし幸か不幸か私たちは飼い主を選べる事はありません。聖書では(ヨハネ15:16)でこう言っています。"あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ"と


普段の教会で私は罪をおかしましたと告白する人はまれですが、今日の説教はボクの罪の告白です。罪は神様に悪いから罪というだけでなく私たちを蝕むからこそ罪です。聖書では(ヤコブ5:16)"主に癒して頂く為に罪を告白し合い、互いの為に祈りなさい。正しい人の祈りは大きな力があり、効果をもたらします"と書いてあります。


それ故に告白します。僕は今週だけでも沢山罪をおかし、弱さゆえに親しい人達に迷惑をかけ、悲しみや後悔でハラワタを引き裂いています。それでもこうして神の恵みと信仰と兄弟姉妹である皆さんのおかげで再び立ち上がり、正しい祈りをもって僕が傷つけた人々の幸福を願う事が出来ます。


‭"喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く"(ローマ12:15)神が皆さんを憐れみ、ともにあって癒しと慰めを与えて下さり飼い主として導いて下さるように祈ります。

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