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まちこのGB 《第2章の3》 チャレンジ前日、そりゃ漏れる心情

【2-3】 この先ずっと、一生のその先まで必要ない

 ギュネスチャレンジを翌日に控え、真知子と朝霞は下見のために潮風公園に来ていた。
 
 会場となる潮風公園は東京都の水再生センターの上部に造成されているため、とても高い位置に公園が広がっている。辿り着くためにはなだらかなスロープを上がらねばならない。

 けっこうな距離のスロープを歩き、緩やかなカーブを抜ける。
 道の両脇から見下ろせる巨大な水槽のようなものに目を取られつつ歩を進めると、突如、目の前に公園の全景が広がった。

 屋上に上がったはずがそこは地上であったという奇妙な感覚に二人は襲われた。
 朝霞の頭には「空中庭園」という言葉が浮かび、真知子の頭にはなぜか「無間地獄」という言葉が浮かんだ。

 この公園は開園時間が限られている。まだまだ夕陽が顔を出している時間だが、閉園間際の公園内には真知子と朝霞以外の姿は見えなかった。

 係員らしき作業服の男性が、入り口脇でタバコを吸っていた。真知子と朝霞に気づくと慌ててタバコを踏み消した。
 二人はそんなことには目も留めず、遠くに見える鉄の塔に釘付けとなっていた
 周りの遊具と比べて明らかに異質で、空港と東京湾を望める展望台よりも遥かに高かった。
 
 ビル七階に相当する鉄の塔。
 床を通して空が透けて見えるということは、上に登った時も下が丸見えということだ。

 ポットの口のように突き出た先にバンジージャンプ用のロープが垂れ下がっている。

 息を飲み二人が鉄塔を見上げていると、大型のトラックが近づいてきた。数人の作業員たちがパイプや鉄骨を手際よく運び出していく。荷台の奥にはドラムセットやアンプも見えた。

 もしかしてこれは――。

 真知子と朝霞が顔を見合わせる。
 真知子はタイミングを見計らい、作業全体の指揮を取っている年配の親方に声をかけてみた。「仕事の邪魔だ!」と怒鳴りだしそうな風貌ではあったが、嫌な顔をすることもなく応対してくれた。

 やはりこれは朝霞のためのステージ作りであり、だいたい今から二時間ほどで仕上げるのだという。
 さらに明日にはクレーン車もやってきて、ポットの口の部分に鉄骨製のステージを吊り上げるそうだ。
 親方は、「他の業者だったら時間も金も倍はかかるぜ」と誇らしげに顔をしわくちゃにした。

 目の前でその道のプロフェッショナルな人たちがテキパキと鉄骨を組み上げていく。
 その様子を見ながら真知子と朝霞は同じ気持ちを抱いていた。
 おいおい、思ったより大掛りじゃないか――。
『GB』にチャレンジするということはこういうことなのだ。

 どこかぼんやりとしていた『GB』チャレンジが、実感と重さを伴って二人の前に現れた。

「大丈夫ですよ!」

 とりあえず真知子は朝霞に声をかけた。隣にいる真知子にも朝霞の緊張はビンビンに伝わっていた。
 朝霞はタワーを見据えたまま顎をさすった。今や顎のラインはさすれるほどには顔を出していた。

「朝霞さん、試しに登ってみましょうか」
「いや、大丈夫だ。本番、一発勝負で行く」

 朝霞は怖気づいている。その即答振りに真知子はそう思ったが、どうやらそうではないようだ。

「俺は高さに対する免疫もだいぶつけてきた。でも、今、登ってみて、とんでもない恐怖を感じてしまったら、絶対に明日も無理だと思う。無駄なトラウマはいらないよ」

 朝霞の眼は怯んでいない。俗に言う、臆病ではなく慎重なだけ、というヤツだろうと真知子は判断した。

 実際に朝霞は高さに慣れる訓練も怠っていなかった。ギターと踏み台を片手に適当なマンションに侵入し最上階へと上がる。誰も見ていないのを確認し、踏み台に上がって熱唱する。

 繰り返す内に朝霞は自分なりにコツを掴んでいた。本当に集中できた時は高さも恐怖も忘れられたのだ。

「大丈夫。やるよ、やってみせる」

 朝霞の言葉に真知子も頷いた。これはもう自分たち二人だけの話ではない。知らないところで色々な人たちが協力してくれている。

 帰りしな、なんとなく公園の中を二人で歩いた。そして、途中のベンチにどちらともなく腰を下ろした。
 お互い明日を控え、まだ話すことがあるような気がしていた。
 しかし二人は口を開くことなく、ぼんやりとしている。

 この公園はとても広い。子どもの遊具も充実している。時間的に子どもの姿はないが、明日は多くの家族連れで賑わうのかもしれない。

「もう終わっちゃうんですね」

 真知子が突然呟いた。朝霞は我に返り真知子の言葉を反芻する。入場口のところに係員の姿が見えた。ちょうど門を半分閉めているところだった。

「ああ、この公園って六時までみたいだからね」
「違いますよ。私たちのチャレンジが、ですよ」

 え、これから始まるんだろ? と朝霞は思ったが真知子の気持ちもわかる気がした。
 明日になれば、久しく忘れていたこの充実した毎日が終わってしまう。
 真知子がわざわざそう口にするということは、真知子にとっても充実した毎日だったのかもしれない。

 そっと窺うと真知子の横顔は寂しげに見えた。

「朝霞さんと知り合ってからの毎日を思い返してみると、パッと浮かぶ出来事がいくつもありました。ここ何年かの思い出を足しても追いつかないくらいに。これってすごくないですか?」

 そりゃあ最近のことなんだから、とも思ったが真知子の言うことも理解できる。

「うん、確かにそうだ……」

 朝霞は顔を伏せ笑った。素直に認めることが照れくさかった。
 次に言うべき言葉をなかなか言えずにいると、真知子の「ですよね~」という嬉しそうな声が聞こえてきた。

 顔を伏せる朝霞の耳に風の音がした。頭上を飛行機が近づいてくるのがわかった。飛行機の轟音が通り過ぎたあと、いっときの静寂が訪れた。
 意を決して顔を上げると、真知子の大振りなくしゃみが響いた。

「大井さん」
「はんですか?」
 真知子は鼻水をすすっている。
「本当にありがとうな。俺にとって決定的な、なんつうか超大事なアレに気づけた。間違いなくアンタは俺の人生に影響を与えた一人だ」

 くしゃみを繰り返す真知子にかまうことなく、朝霞は一気に言い切った。

「まさか風邪ひいたのかな、季節の変わり目って要注意なんだよな……」

 朝霞の感謝は届かなかったようだ。真知子は不自然なほど朝霞の言葉に反応しなかった。
 でも、それでもいいと朝霞は思った。気持ちが伝わることも大事だが、伝えたい気持ちを言葉に出せたことも大事なことだ。

「お互い様ですよ」

 真知子が鼻をグズつかせながらそう言った。

「お互い様?」
「はい。お互い様です」

 真知子はそう言ったきり、遠い目で海を眺めていた。
 朝霞は真知子の言いたいことがよく理解できなかったが、あえて何も言わず真知子と同じように遠い海の先に目を向けた。

 しばらくして真知子がチラチラと朝霞を見ていることに気がついた。

「朝霞さん、伝わってます?」
「え?」

 朝霞が戸惑っていると真知子は呆れたように息を吐いた。

「本当はね、『あたしもありがとう』って言おうと思ったんですよ。でも、なんでもかんでも言葉にするのは野暮ってもんじゃないですか。言葉に出さなくてもあたしの気持ち、伝わりましたでしょ?」
「……さすがに伝わりました」

 真知子がほっとしたように笑った。朝霞もそれを見て微笑んだ。

「そういえば、朝霞さんはどこでウチの会社を知ったんですか?」
「俺はね」
 朝霞の顔が一瞬、曇った。「ホームセンターのロープ売り場でビラを見つけた」「そのビラってすっごくわかりづらかったんじゃないですか?」
「そうそう。すごい小さいビラだったから初めは何かと思ったよ」

 朝霞は笑いながら両手でビラの小ささを表現している。
 
「あれじゃ宣伝の意味がないんじゃないの?」
「そうですけど、きっとあのビラを見つけ出せるかどうかも重要なんですよ」

 ああ、そうか――。
 朝霞はあの時の自分を思い出す。
 狂ったようにロープを吟味していた自分。
 どれだけの重さに耐えられるのか、肌に触れた時の感触はどうなのか。

「ロープって掃除の仕事で使うんですか?」
「ん、まあ、なんていうか……」

 あの時のことは今となっては笑い話だ。笑い話なのだから明るく話すべきだと思った。 

「ちょっとね、首でも吊ろうかと思ってね」
「それって何かのダイエット法かなんかですか?」

 朝霞は面食らった。この衝撃の告白に、真知子はいつも通りのリズムで言葉を返してきた。しかもその返答は不自然なくらい的を外していた。
 その不自然さの意味をなんとなく察知した朝霞も、不自然で不謹慎な明るさを発揮した。

「そうそう。『首吊りダイエット』って言ってさ、最終的にぜ~んぶケツから流れ出るからけっこう痩せるらしいよ」

 そう言って真知子に笑いかけたのだが、真知子は厳しい顔で朝霞を見ていた。

「そんなダイエットは絶対に必要ないです。現にそんなことに頼らなくても痩せたじゃないですか」
「……そうだ。もう必要ない」

 この先ずっと、一生のその先まで必要ない――。
 真知子の険しく潤んだ眼を見ていると、朝霞はそう宣言したくなった。

 朝霞のスマホがメールの着信を知らせた。真知子は優しい顔のまま、ネコをかたどった滑り台を見つめている。
 メールは晴子からだった。

「明日はみんなで応援に行きます。頑張って」

 その無機質でデジタルな文面に朝霞は泣けてきた。他人からの「頑張って」がこれだけパワーを与えてくれることを改めて知った。
 朝霞は必死に感情を抑えた。女の子の前で情けない姿を見せるわけにはいかない。

「朝霞さん、むせび泣いているところ悪いんですけど、勝手な推測で妄想してもいいですか?」
「いいです」
 朝霞は遠慮なく両目をこすった。

「あの歌って誰か特定の人に向けたものですよね?」
「特定の人……」

 朝霞の頭にまず浮かんだのはイツコだった。でも今では自信を持ってそうだとは言えない。
 ここ最近、朝霞が思い浮かべるイツコは、輪郭がぼんやりとしている。

「明日はその人、もちろん来ますよね。それで、チャレンジが終わったらやっぱり告白とかしちゃうんですか?」

 はしゃぐ真知子を横目に朝霞は考える。
 あの歌は誰のために作ったものなのか、自分は明日の『GB』チャレンジをいったい誰に見てほしいのか。

「そうだ!」

 真知子は勢いよく立ち上がり遠くを指差した。

「ライブの最後にあの上から告白しちゃえばどうですか? 女って、そういう特殊なシチュエーションに弱いですから!」
 
 朝霞は考えることをやめて、真知子に付き合うことにした。なにせ、今回、いちばんお世話になった人だ。いちばん『GB』チャレンジを見せたいのは真知子といっても言い過ぎではない。

「約束するよ。なんかしらあの上から派手にやろう」
「あ……」

 真知子がさらに思いついたようだ。

「サプライズで、その相手のご両親を呼んどいたらどうですか?」
「ごめん、大井さん、ちょっとそれは……」
「は!」
 真知子は興奮の度合いを強めていく。
「神父も呼んどいて、その場で挙式しちゃえばどうですか? 車も手配しといて、そのまま羽田空港に直行とか!」
「だから大井さん、ちょっとそれは……」

「はうあ!」
 
 真知子が我に返ってくれたようだ。困惑する朝霞の様子に顔を赤らめている。

「……朝霞さんが、今は多少良い男だけどそれまでは彼女なんていようはずもない男だったってこと忘れてました。嫌味なつもりはなかったんです、スイマセン!」

 すまなそうに頭を下げる真知子の姿に朝霞はつい吹き出した。

「おいおい、大井さん。いくら本音だからって何でもかんでも言葉にするのは野暮ってもんだぜ」

 二人で大きく笑った。
 この悪気なく人を傷つける真知子節を聞くことも、明日で最後かと思うと寂しくすらあった。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門


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