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まちこのGB 《第2章の9》 あなたの女王様は誰ですか?

【2-9】 どこかで聞いたうろ覚えのオリンピック精神

「これが、ヌード写真つきサングラスで、これが手のひらに『人』って縫いこまれた皮手袋で――」

 今や場末のスナックのママ然とした真知子が、朝霞のための高所克服グッズを机に並べている。
 効果のほどは定かではないが、自分のために用意してくれたという思いがきっと効果を発揮してくれるはずだ。

「それにしてもさ、朝霞、痩せたよね……」

 鞭打ちを終えた渡辺が朝霞の横に腰を下ろす。

「気合だよ、気合。ちょっと断食すりゃこんなの簡単だって」

 断食は言いすぎたが、それくらいの気持ちで臨んでいたのは確かだ。今も精神が高揚しているからか、不思議なくらい空腹感がない。

「断食ならこれもダメ?」

 渡辺は自分のリュックからジャックダニエルとラベリングされたバーボンのボトルを取り出した。

「ああ、それはさ、俺らロッカーにとって水だからオッケー」
「うまいこと、……言うじゃん! 言うじゃん!」

 肘を振りはしゃぐ渡辺を尻目に、朝霞はボトルに直接口をつけゴクリと飲み込んだ。
 ロックギタリストにとってジャックダニエルは必需品だ。久しぶりの燃えるような喉の熱さがいとおしく感じる。

「俺は逆に太りたいけど体質的に難しいんだよな」

 渡辺が自分の腹の皮膚をつまんでいる。

「なんでだよ。マッチョの方がいいだろ」
「女王様に罵られたいんだよ、この豚!って」

 渡辺は一点の曇りもない笑顔を見せた。

「上海は、完全にそっちの業界に嵌ってんだな」

 渡辺にボトルを回す。渡辺はゴクリゴクリと勢いよく喉を鳴らし、プハーッと大きく息を吐いた。
 以前より渡辺の飲みっぷりが豪快になっている。

「俺はさ、屋敷みたいに今の仕事に馴染めてないし、だいたい営業なんて向いてないんだよ」

 朝霞の頭に、この前の背中を丸めた渡辺の姿が浮かんだ。

「だからさ、朝霞の一言はすごく嬉しかったよ」
「ん? なんか言ったっけか?」
「言ったじゃん。遊びでもいいからバンドやろうぜって」

「ああ……」確かに言った。

「屋敷はどうだか知らないけど、俺はバンドを続けたかったよ。でも最後の方はさ、お前、売れることばっかり考えておかしくなってたよ。肌を焼いてダンスの練習したり、韓国語の練習し始めたりさ。お前、売れなきゃバンドやってる意味がないなんて、真顔で言ってたんだよ?」

「……ああ」
 確かに言ってた。

「だからまた一緒にライブできるのは嬉しいよ。なにせ、朝霞クンは、俺のドラムじゃないとギター弾けないらしいですもんね?」
「そうだよ。他の奴じゃグルーブが合わねえからな」

 渡辺は照れた風に眉を上げると、満足げにジャックダニエルを流し込んだ。

「不思議なんだけどさ、女王様に酷いことされんのはいくらでも我慢できるんだけど、仕事上でいびられるのはまったく我慢できないんだよね」
「なんだろうな、女王様には愛があるのかもな」
「そのとおり。どれだけ痛いことされたって自分を思ってくれてるのが伝わってくるんだよ」

 そうか、女王様とはそういうもんなのか。形はどうであれ、その時間は、ちゃんと上海のことを見てくれているのだろう。

「朝霞の女王様はどうなの?」
「悪いけどそういう趣味はねえよ」
「違うよ、彼女ってこと。誰かいい人いないの?」
「いい人って……」

 渡辺のいう女王様とは酷いけれども愛があり、自分を思ってくれる人――。

「まあ、そんなことはどうでもいいよ」
「どうでもよく、ないじゃん! ないじゃん!」

 渡辺がハイテンションで迫ってくる。
 朝霞はなんとなく自分にとっての女王様を思い浮かべてみるが、その顔は輪郭がぼやけてよく見えない。

「朝霞さん!」

 はっきりと自分の名を呼ぶ声が聞こえた。真知子だった。

「これ、やるの忘れてました。早くやっちゃいましょう!」

 真知子が糸に釣られた五円玉をぶら下げてやってきた。張り詰めていた気が緩む。

「よ~く、私を見てくださいね」

 薄汚れた古本を片手に、真知子が五円玉を左右に振っている。朝霞は言われたとおり、自分のために催眠術を仕掛けてくれている女性の顔をじっと見つめていた。

「ちょっと、なに見てんですか!」

 朝霞の視線に気づいた真知子が顔を赤らめている。

「だって、よく見ろって言ったじゃない」
「この五円玉を見るんですよ! そうじゃなきゃ、あたしは何のためにブラブラしてんですか!」 

 朝霞はつい吹き出した。女王様がどんなものか知らないが、真知子になら鞭で打たれてもいいような気がした。
 渡辺を見るとこれ見よがしに不恰好なウインクを繰り出している。軽く頭を小突くと渡辺はイヤ~ンと笑った。

「あなたはだんだん眠くな~る、眠くな~る。……って寝ちゃったら駄目じゃん、これからライブなのに」

 真知子が本を片手にブツブツと文句を言っている。渡辺も本を覗き込み、ああだこうだとやっている。
 朝霞は目を閉じた。
 久しぶりの飲酒のせいか自分の頭がふわふわと揺れているのがわかる。こんなに気持ち良く酔っているのはいつぶりだろうか。

「わかった! 『だんだん眠くな~る』じゃなくて、『だんだん眠くならな~い』ってやればいいんだ!」
「それって……、いいじゃん! いいじゃん!」

 なんだかすごく穏やかな時間だ。催眠術が効いたのか、本当に眠くなってきた。
 まどろむ朝霞の頭に見たこともないオリンピックの聖火台が浮かぶ。そして、どこかで聞いたオリンピックの精神に深く納得した。

 まさに、参加することに、参加するための過程に意味があるのだな。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門


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