まちこのGB 《第2章の8》 お前の作家性など誰も求めてない
【2-8】 下町に突如現れた宝ジェンヌダルク
テントの片隅で新生【Lucky Inter Hospital】の三人が出番を待っていた。
本番はもう間もなくだ。
「ハウッ、あの新曲でいいんだよね? ハウッ、曲の構成は完璧に頭に入ってるから」
渡辺は集中力を高めるためだと自分の体に鞭を打っていた。比喩ではなく、実際にヒダが何本もついているマイ鞭だった。
乾いた音が響き渡るたびに、渡辺の体に赤い筋が浮かび上がる。
「さすが上海だ。頼りにしてるぜ」
朝霞がサムズアップすると「動クナ!」とイマチに怒られた。朝霞の流血を止めるためにイマチが包帯を巻いてくれている。
額はすでに覆われているのにイマチは包帯を巻く手を止めなかった。
「もういいんじゃない」と朝霞が言ったところでイマチが突然笑い出した。
「綿棒! ザッツ、巨大綿棒!」
朝霞が頭を触ってみると、頭のてっぺんまで包帯で覆われているようだった。
「え? なにしてんだ!」
朝霞は声を張り上げるが、イマチは咳き込みながら笑っている。
「綿棒っていうより白いぶなしめじ、じゃない?」
上海も鞭打つ手を止めて一緒になって笑っていた。
その光景を見ていたら、朝霞も笑えてきた。ほどよく場の緊張が和らいだのでよしとしよう。
「なあ、上海」
「ん?」
「前はそこまで鞭打ってなかったよな?」
「そりゃブランクあるからね。こうしてないと緊張で押し潰されそうだもん。それに」渡辺は眉間の皺を深めたあと「性癖もだいぶ変わったしね」と笑った。
「そうだよな……」
朝霞はなんとなしに後ろを振り返ってみた。もしかしたら屋敷も当時の格好で現れるんじゃないかと思ったからだ。
だが、そこには恐る恐るこちらを覗き見る子供たちしかいなかった。
お前ら、あっと言う間に大人になっちゃうぞ――。
なぜだか朝霞はそんなことを子供たちに語りかけたくなったが、その言葉は胸に秘め、あの子らが早く大人になりたいと思えるように、このチャレンジは絶対に決めてやると誓った。
缶コーヒーを両手に抱えた黒岩が戻ってきた。一人ずつコーヒーを配り改めて目を見開いた。
「なんだか、すごいっすね……」
「なにが?」朝霞が聞く。
「なにって、この光景を客観的に見てみてくださいよ」
手鏡を覗き込んでいた朝霞は、客観的にこの光景を眺めてみた。
自ら裸体に鞭打つブルース・リーにサングラスのトゲトゲマスク、そして自分は、顔を白く染めた国籍不明の白いぶなしめじ――。
いったい何の集まりなのかと自分でも思う。
「でも朝霞さんたちのバンド名にピッタリか」
黒岩がノートにペンを走らせながら言った。
「なんで?」
「だって『Lucky inter hospital』ってバンド名は『幸運な埋葬をする病院』って意味ですよね?」
黒岩の発言とその流暢な発音に朝霞は驚いた。
「え、『inter』って『国際』って意味じゃないの?」
「あ~、『international』の流れからですか。まったく無能な勘違いですけど、まさに三人とも『運良く埋葬される病人』って感じでピッタリじゃないですか!」
朝霞と渡辺が顔を見合わせて笑う。イマチは一人、盛大にクシャミをした。
「そうだな、まさに俺たちは……、音楽って病に蝕まれた病人の集まりだぜ!」
朝霞は子供たちに向かいポーズを決めた。子供たちはそれぞれ目配せをした後に、歓声を返してくれた。
その直後、派手な機械音が耳をつんざいた。目の前のクレーンが動き始めたのだ。
作業員が鉄骨製のステージに何本もフックを引っ掛けていく。そのステージにはドラムセットやアンプ、マイクスタンドが設置されステージとしてなんの遜色もなかった。
子供たちが声を上げながらクレーン付近に群がり始めた。前に出ようとする子供たちを作業員が制している。
クレーンがもう一度唸りをあげ巨大なアームが動き始めると、反対に子供たちの動きは止まった。
しっかりとフックされたステージがゆっくりと吊り上げられていく。それにしたがい子供たちの顔も上がっていく。
そしてバンジー台の飛び降り口のところに乗せられると、上で待機していた職人がすかさず固定し始めた。
朝霞と渡辺はだらしなく口をあけたまま見上げていた。ようやくクシャミが止まったイマチも見上げいてる。三人の心はひとつだった。
今からあそこに上るんだ――。
三人は塔上でのリハーサルは避け、本番一発勝負でいくことに決めていた。だからこそ、登る前に入念に打ち合わせをしてイメージを共有しておく必要があった。
「上海はとにかくシンプルにリズムキープをしてくれればいい。今回は無理な注文はしない」
「わかった。適当にオカズは入れるけど、基本的にその場のグルーヴに身を任せるよ」
「お前はグルーヴに任せすぎると、リズムが突込み気味になるから気をつけてくれよ」
「わかったって。あんまり解放しすぎずに、その場のグルーヴに身を任せるよ」「だから、グルーヴは……」
朝霞はつい笑ってしまった。
「わかったよ」
渡辺は自分を解放しグルーブに身を委ねたがっている。その衝動を咎めることなど朝霞にはできない。バンドをやるということの根本は解放して隷属することだ。
イマチに目を移す。イマチはベースを取り出してチューニングをしているところだ。
「イマチは演奏のことは気にせずに、動きの部分で俺らや見ている人を鼓舞してほしい。どうせ上空で音も散らばるだろうから」
イマチは素直に二度頷いた。
「あんたらが、今日の楽団かい?」
ガラ声だが響きが高い声がした。鶏ガラのような顔に黒々とした頭髪の老人、堀之内だった。
「……そうですけど」
態度のでかい見知らぬ老人の登場に朝霞は困惑している。イマチは憎々しげに老人まで聞こえる大きさの舌打ちをした。
「わしはな、GSJの平社員、堀之内だ。どうか今日はしっかり頑張ってくれな」「平社員、の堀之内さん、ですか……?」
「ああ、そうじゃ。とりあえず全員、集まれ」
堀之内は腰を下ろすと自分を中心に手招いた。朝霞たちはなんとも言えない迫力に圧され、おとなしく従った。
イマチだけは一列輪から外れた場所で足を止めた。
「朝霞ってのはどいつじゃ?」
朝霞は言われるままに右手を上げる。
「お前は高所恐怖症なんだってな。ちゃんと努力したか?」
「まあ、自分なりに努力はしてきましたけど……」
「嫌で嫌でしょうがなくて、どうせ誰も見てないのをいいことにサボったりしたんじゃろ?」
「……どういう意味、ですか」
朝霞は少し気色ばんだ。堀之内の言う事を全部否定する気はないが、なんで見ず知らずのジジイにこんなことを言われなきゃいけないのだ。
ジジイの言葉は続く。
「できれば今だって、こんなことやめて楽になりたい~、って思っとるんじゃろ?」
それも間違いではない。できればこんな塔に登りたくない。
朝霞が返答に窮していると、堀之内はさらに挑発的な言葉を並べた。
「あ~、こんなことしてないで、さっさと家に帰って栗饅頭でも食べながら渋みの効いた煎茶でも飲みたいよ~、なんて思ってるんじゃろ?」
「思ってねえわ!」
朝霞よりも早くイマチが声を上げた。その声はさっきまでの甲高い裏声とは違う、いわゆる地声であった。
渡辺と黒岩が驚きの顔でイマチを見つめている。
それを見た朝霞は慌ててイマチの肩を抑えるが、イマチはその手を振り払って言葉をぶつけた。
「ただの新入社員が何を偉そうにしてんだ! あんたみたいのを老害って――」「黙れ、小娘!」
堀之内はイマチよりも大きな声で鋭く空気を切り裂いた。
「わしはな、それくらい嫌なことではないと努力とは呼べん、と言っとるんだ。【禁酒の誓い】といえば聞こえがいいが、酒を好まぬ人間がそんなことをしても何も偉くはない。酒好きのアル中が禁酒をするから努力であり、尊いものなのじゃ!」
まあ、確かに――。朝霞たち一同は素直に黙って聞いていた。
ただ、最初からそう言えよ、とも思っていた。
「苦手なものを克服してこその努力であり、そのことが自信へと繋がっていくのだ。わかったか!」
イマチも納得してはいたが、一度は沸騰してしまった手前、その興奮を収めるタイミングがわからない。
「おまえさんは勘違いしているようじゃが、わしは新入社員では――」「じゃあ、あんたも克服しなさいよ!」
イマチは堀之内に手を伸ばし、髪の毛を鷲掴みにした。
「やめろ!」
「自信あるなら堂々としてればいいでしょ!」
「やめろ!」
堀之内は必死に髪を抑えている。
「お、おい、イマ……、屋敷!」
朝霞はイマチを後ろから羽交い絞めし、いとも簡単に引き剥がした。
「……いい加減にしろ」
気がつくと大森が立っていた。小さいながらも大森の声は低くてよく響く。
「あ、社長! この人なんなんですか、いったい!」
イマチは朝霞の腕を抜け、大森に訴えた。
「オ、オイ! イマ敷!!」
耳をつんざく朝霞の金切り声にイマチは動きを止めた。
周りを見ると、唖然としている渡辺と黒岩の顔が並んでいた。朝霞は苦虫を噛み潰したような表情で下を向いている。
それに倣い、イマチも大森から顔を背けた。
「ひとつだけ……」
大森は慌てることなく、その長身に見合った細くて長い人差し指を朝霞に向けて伸ばした。朝霞は疚しいことは何もないといった風に笑顔を繕っている。
「我々は、努力した人間が報われるべきであり、チャレンジする姿、それに伴う苦労が大事なことだと考える。我が社は、そのために努力する人物に対しては、人的にも金銭的にも協力を惜しまない」
「そうじゃ……」
息を切らして堀之内が立ち上がる。登場時よりも明らかにおでこのラインが繰り上がっていた。
「今の時代、いかに楽して金儲けをするか、他人を利用してでも利益を得たいと考える輩が多すぎる。本来は、自分で汗を流しその結果に成功がついてくるようでないとうまくないのじゃ」
大森が続く。
「だから、君もそのことに気づいてくれればいい。結果にこだわらないでくれ」
二人の言葉は朝霞の心に沁みた。気持ちがスーッと楽になっていくのがわかる。
イマチも憑き物が取れたように穏やかな顔になり、黒岩はチャレンジもしないくせに「はい!」と大きく返事をした。
「大井、そのための黒子として、しっかりと求められる場所で協力させてもらえ」「わかりました!」
イマチが溌剌と声をあげた。「ハウワッ! チガウワ、俺ハ男ダ!」
「アホか、小娘! もう誰もがけっこう前から気づいてるわ!」
「え、気づいてたの?」
イマチが朝霞に顔を向ける。
「俺はもちろん、知ってるでしょ……」
「あ、そうか……。じゃあ、あなたは?」
イマチが黒岩に顔を向ける。
「僕も、『さっさと家に帰って栗饅頭でも食べながら渋みの効いた煎茶でも飲みたいよ~、なんて思ってるんじゃろ?』『思ってないよ!』のくだりのところで気づきました」
「じゃあ、あなたは?」
「意外とオッパイが大きいなってことは……」
渡辺は顔を赤らめた。
「な~んだ……じゃあ、もうこんなものも必要ないね」
イマチは立ち上がりトゲトゲとサングラスを外した。ロッカーというよりは、宝塚の男役のような厚化粧顔が現れた。
「社長、私も女です。逃げも隠れもしませんよ」
机の上にドンと胡坐をかいた。イマチ改め、真知子のイメージする『けじめ』の作法だ。
「さあ、欠勤でも有給休暇でも好きに処分してくださいよ!」
「な~にを、かっこつけとんじゃ!」
目線の高さが同じになった真知子に堀之内が顔を寄せる。
「お前の処分は、欠勤でも有給でもないわ!」
「え? ……まさか、く・び?」
真知子の顔から表情が消える。堀之内の顔がにやりと歪む。
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺が無理やりやらせたんです。嫌がる彼女を監禁し、トイレを盗撮して逃げられないようにしたんです!」
「何それ? ヒドイ!」
「バカ、嘘に決まってるだろ」
「待て待て、わしはなにも言っとらんじゃろ。社長から直々に処分を告げてもらえ」
堀之内は腰をかがめた大森に耳打ちすると、振り返ることなく去っていった。代わりに大森が真知子の前に歩を進める。
「大井、今日のお前の処分は……」真知子と朝霞が固く目を閉じる。「出勤だ」
「え! いいんですか?」
「そのかわりしっかり仕事してこい。皆が楽しみにしてるんだからな」
「ありがとうございます!」
真知子は周囲を見渡してみる。
隣のテントから川崎と矢口がこちらを見ていた。真知子に気づくと川崎は視線を逸らし、矢口はビデオカメラを手にした。
テントの外では少年たちが恐る恐る顔を覗かしている。その向こうにはさらに大勢の人たちがいる。
「よし、みんなの気持ちはしかと受け取った!」
真知子は机の上に立ち上がりトゲトゲマスクを子供たちに向けてフリスビーの要領で放り投げた。
「これで心置きなく、フルパワーで『GB』にチャレンジできるわよ!」
後ろで子供たちが「危ねえよ!」と騒ぐ中、仁王立ちした真知子が拳を振り上げている。
黒岩が朝霞に目を向けると、彼は微笑をもって見守っていた。主役を乗っ取られた妬みのようなものは一切、感じられなかった。
黒岩の右手は自然とペンを走らせていた。
【下町に突如現れた宝ジェンヌ】いや【下町の宝ジェンヌダルク】か――。
後にその原稿は「主観が強すぎる」「読者のことを考えてない」「単なるライターの作家性など誰も求めてない」などと編集部からの不評を買ったが、黒岩は頑として修正を受け入れることはなかった。
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