まちこのGB 《第1章の1,2》 でも、もういい。今日から生まれ変わるのだ。
【あらすじ】
【1-1】 私は今日から生まれ変わるのだ。
「おっちょこちょい」の「ちょい」ってなんだろう?
眼下に広がるコーヒーの海を前に、大井真知子は考える。
「おっちょこ」はなんとなく慌てん坊な気がするのでわかる。でも「ちょい」って――。
いかん、いかん、そんなことよりさっさと後処理をしなければならない。出発の時刻は迫っている。
畳に這いつくばって雑巾をこする。頭をよぎるのは小学校時代の記憶。牛乳を拭いた雑巾をそのまま置いておくと信じられないほど臭くなった。今回はコーヒーだが、きれいに洗ってから家を出たほうがいいだろう。
まったく私のおっちょこちょいは世界一だ。きっと『GB』に申請しても通るんじゃないだろうか。
『GB』とは言わずと知れた、世界一の記録だけを集めた『ギュネスブック』のことである。コーヒーの海が生まれる過程はまさにギュネス級のおっちょこちょいだった。
ほんの数分前、ようやくこぎつけた入社面接に向けて、準備を万全に整えた真知子はコーヒーなんぞを淹れてみた。
コーヒーは苦いので普段は飲まない。だけれども、朝からコーヒーを飲むという行為が社会人らしく感じられたし、おっちょこちょいの自分にはなによりゆとりが大事なのだとも考えた。
コーヒーメーカーは大学時代の知り合いに勧められて購入したアフリカ製の物だ。まるで聞いたことのないメーカーだったが、知り合いは「日本では知られてない通な逸品」「今後、爆発的な人気がでる」と強烈に推してきた。
それから二年、その名を聞いたことは一度たりともない。
妙にざらついたコーヒーを座卓に置き、壁掛けの鏡を覗き込む。メイクも髪型も気負いすぎないナチュラル感を意識した。
真知子の素地はそこまで悪くない。出身地を告げると皆が納得する色白美人という部類である。
時計を見ると、出発時刻まで五分ばかし時間があった。ここで余裕を持って家を出ようとならないのが真知子だ。
ふと思い立ち、よせばいいのに布団を干すことにした。
押入れからまとめて布団を抱え上げると視界は完全に塞がった。よちよちとベランダへ向かう途中、座卓にすねを打ちつけた。
顔をしかめる視界の端で、ほぼ満杯のコーヒーカップがカタカタと揺れている。とっさに右手一本で布団を抱え、左手でカップを押さえようとすると、天井の照明からぶら下がる紐に髪留めが引っかかった。
真知子は一瞬考える。このまま左手を伸ばせば、きれいにまとめたお団子ヘアーが崩れてしまうかもしれない。
結果、真知子はなるべく頭を動かさずに左手を伸ばすことにした。なんとかカップを押さえ、ふたたび両手で布団を抱える。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は台所にある固定電話が鳴った。
普段は自宅の電話に出ることはまずないが、今日は普段とは違う朝だ。なにか大事な連絡かもしれない。
慌てた真知子は布団を放り投げて台所へ向かう。一歩、足を踏み出した瞬間に、後ろから頭を引っ張られた。横目で窺うと照明の紐と自分の頭が一本の線で結ばれていた。
真知子は力任せに頭を振った。しかし照明が揺れるだけで紐は外れない。電話機は鳴り続けている。
「もーっ!」と頭を激しく振るが、逆に揺り返しで強く引っ張られる。
イライラが増した真知子は両手で紐をまさぐるものの、なかなか紐は外れない。
「なんなのよ!」
真知子が紐を思いっきり引っ張ると、張り詰めた紐は根っこから引っこ抜け、勢いあまった真知子は前へつんのめった。
その先には親の代から愛用されている座卓がでんと構えていた。
結果として電話に出ることはできず、髪型は乱れ、目の前にはコーヒーの海が誕生したのだった。
雑巾を洗い終えた真知子は、玄関の姿見で最終チェックをする。唯一の一張羅の埃を払い「よし!」と気合を入れた。
出がけに振り返りテレビの上の張り紙に目を向ける。それは誰だかよくわからないセラピストの言葉を自分で大きく書き写したものだ。
『他人を見たら(だいたい)泥棒と思え』
『笑顔と素顔は≒(ニアイコール)』
都会は本当に恐ろしいところだ。他人の優しさには裏があり、自分の優しさは簡単に利用される。人助けのつもりがいつの間にかアダルトビデオに出演させられそうになった時は本当に驚いた。
でも、もういい。私は今日から生まれ変わるのだ。
【1-2】 お面接のお約束を頂いている大井真知子です。
初めて降りた蒲田駅で京急線に乗り換えて、各駅停車しか止まらない小さな駅で降りた。
スマホの地図を頼りに商店街を歩く。個人商店が連なるその通りは、故郷の景色と重なってなんだか心が落ち着いた。
歩いているとスマホが震えた。表示された電話の主は母だった。
「昨日の電話、なんらった? あんな時間に珍しいねっか」
「あ、そっか……」
真知子は昨晩、母親に電話をかけていた。きっと無言の留守電には吹きすさぶ風の音も記録されていただろう。
「えっとね、あれはね、今日、会社の面接が決まったっけ、嬉しくて電話したがあよ。今のご時世面接が決まるだけでも大変だっけさ」
「あら、そいが~。よかったねっか」
真知子はすっかり嘘がうまくなった。都会に来ていちばん変わったところだ。
「GSJって会社んがあよ。なんだか横文字でかっこいいろ?」
「あんた、それって外国の有名な証券会社じゃねえがっか?」
「……有名んが?」
「そりゃそうら。ミズエさんがよく言ってるて。知ってるろ? 角の家の資産家のミズエさん。あんた金融なんてわかるが?」
「ま、まあね。株とかだって知らないわけじゃねえし、やっぱ目指すなら一流じゃねえとね」
「そりゃよかったこって。頑張ってこいさ。駄目らったらいつでも母ちゃんの店で働けばいいっけ」
「母ちゃん……」
真知子の鼻の奥が苦くなりかける。でも声には出さない。私は都会の嘘がうまい女なのだ。
「ありがとう。でも大丈夫だから心配しないでいいからね」
「はいはい。好きなだけ頑張れさ。あんたの頑固はお父さん譲りだね」
商店街を抜けると小さな町工場が増えてきた。こんなところに一流企業の会社などあるのだろうか。
でも、隠れ家的名店は裏路地にあるし、本当のお金持ちは飾らないと聞く。本当の悪人も見た目だけではわからないことも真知子は知っている。
スマホのGPSが目的地と重なった。真知子は足を止め目の前の建物を眺める。二階建ての古びたビルで、郵便受けのところにかなり控えめな大きさで社名が表記されていた。
【合同会社 GSJ】
一階部分はシャッターが下ろされ、その端っこに入り口が見える。スムーズに入るのは憚られる雰囲気をまとった外観だ。
真知子は入り口前を数回往復したあと腹を決めた。
「ボロは着てても心は錦!」
えいやと重たいガラスドアを押し開き、真知子はそのまま二階へ続く階段を上がっていった。
室内への入り口は中の様子が覗けない真緑の扉のみ。インターホンは見当たらないし、ノックしても返事がないので、真知子は突入することに決めた。
「失礼します!」
元気よく分厚い扉を開けた。
まず目に入ったのは真正面に座るサングラスをかけた男性。その周りには若い男性と、忙しなく動く女の人がいる。
室内は引越直後のように乱雑にダンボールが積まれていた。
「こんにちは!」
誰も何も言ってくれないので真知子は再び元気よく声を出す。元気がいいのは真知子の取柄だ。
女の人が真知子に気づき「社長!」と声をあげた。
正面に座る男性が顔を上げる。サングラスが似合うほっそりとした顔つきは、真知子が好きだったミュージシャンに似ていた。
「……誰にも負けない君だけの特技は?」
社長らしき男性が落ち着いた声で問いかける。いきなりの面接開始に真知子は動揺した。
「わたくし、金融のプロフェッショナルではありませんが、銀行口座は二つ持ってますし、先物取引で騙されそうになったこともあるので、まるで知らない世界とは言い切れないところもあると思います!」
「うるさいよ」
女の人が顔を上げた。短髪をしっかりと七三で撫でつけた切れのある顔だ。
「あ、申し遅れました。わたくし、本日のお面接のお約束を頂いている大井真知子と申しまして……」「矢口!」
女の人に矢口と呼ばれた男が面倒くさそうに立ち上がる。優しい顔立ちの背の高いイケメンだった。
「君、求人広告を見たんでしょ?」
「もちろん見ました! これですよね!」
真知子は、昨日見つけた求人広告を取り出して広げた。この広告に出会ったからこそ真知子はここにいることができたのだ。
矢口は顔を振り左目にかかる前髪をずらして真知子を見据えた。
「君は先着二番目。そういうことだから」
呆れたようにため息が混じる矢口の口調は、とにかく面倒臭そうだ。
「いいんですか? わたし、金融の実務経験とかないですけど……」
「いいよ。なにか勘違いしてるみたいだけど、うちの会社は『ギュネス申請ジャパン』、略して『GSJ』ね」
「ギュネス申請ジャパン?」
驚いた真知子が顔を上げると、社長と女性がじっと真知子を見ていた。
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