まちこのGB 《第1章の15》 完全に主従が逆転している
【1-15】 完全に主従が逆転している
「突然ですが報告があります。あの朝霞とかいう男の案件ですが、中止することになりました」
朝のミーティングが始まると、真知子はさっそく声を上げた。
皆が真知子に目を向けていたが、矢口は顔を伏せほくそえんでいるように見えた。
真知子にはそう見えた。
「人の本心なんてわからないですよね。あのポンスケは予想以上のクズでした」
真知子は矢口に対して、素直に自分の負けを認めた。
矢口は顔を伏せたまま笑わないように自分の足を抓っているように見えた。
真知子にはそう見えた。
「結局、ああいうピンテープ野郎は――」
真知子は思いつく限りの罵詈雑言を並べあげ報告を続けた。
自分は朝霞に心を許していた。朝霞もそうだと思っていたのに。
『笑顔と素顔は≒(ニアイコール)』
真知子は再びこの言葉を深く心に刻みつけた。
「川崎さん、そういうわけなんで、キャンセルできますか?」
「できないことはないけど、本当にいいの?」
川崎の言うとおり、こんな簡単に諦めていいのかと真知子も思う。しかし、本人が止めるという以上、どうすることもできない。
「だったらキャンセルしとく。お金の取り立てだけは頼むよ。グダグダ言うようだったらすぐに言ってね」
川崎は呆気なく了承し、ミーティングは終了した。
「かかった経費だけまとめといてよ」と真知子に告げ、川崎は出ていった。
矢口も鞄を片手に立ち上がる。真知子は少し身構えたが矢口は何も言わずに出て行った。
「ほら見たことか」と腹の中であざけ笑っているはずなのに。
真知子はなんだかわからない感情が混ざり合い、怒りに震えていた。それなのに、泣きそうだった。
大森と真知子が部屋に残された。ひとまずいつもどおりの業務をこなすことにする。まずは事務所の清掃だ。
古臭いリノリウムの床を箒で丁寧に掃いていく。掃除をしている自分とビル清掃をしている朝霞が重なり、つい箒を叩きつけてしまった。
大森が自分を見ているような気がしたが、どうせサングラスの奥の真意はわからないので気にしない。
呼吸を整え再び掃き始めると、どうにも首筋の辺りがチクチクと痛んだ。
自分が思う以上に、体がいらついているようだった。
ひと通り掃き終えチリトリでごみを集めていると、誰かが入ってきた。
真知子の視界の端に太った人間の姿が映る。
「まさか」と真知子が振り向くと、デブはデブでも小柄で肌艶のいいポッチャリがいた。
その後ろには似たようなポッチャリが二人続いている。三人ともにお揃いの女の子がプリントされたTシャツを着ていた。
「我々、『GB』掲載を希望する者たちなんですが……」
なんでこんな時に――。
真知子の胸のざわめきは最高潮だった。今すぐにでも髪の毛を掻き毟り叫びたかったが相手は客だ。
大森が席を外している今、自分がプロとして丁寧に接客しなければならない。
「あなた様の誰にも負けない特技はなに」
「はい? すいません?」
「ポッチャリ三兄弟が雁首揃えていったい何ができんのよ!」
真知子の勢いに三兄弟が尻込みする。先頭のキャップを被ったポッチャリが、背中を押され口を開く。
「すいません。チャレンジするのは我々じゃなくて、『姫』なんですが……」
三兄弟は控えめにTシャツのプリントを伸ばし真知子に向けた。そこには悩ましげな目をした少女が口をすぼめている。
真知子はこういう顔を知っている。今まで何度も見てきた異性に媚を売る女の顔だ。
とつぜん降って沸いた嫌悪感は真知子を冷静にさせた。
「その女が『GB』にチャレンジするってこと?」
「女じゃないです。『ざくろりん』もしくは『姫』です」
急に目が据わったポッチャリ三兄弟の指摘を真知子は無視することにした。
「なんでもいいけど、本人はどこにいらっしゃるんですか?」
「どこって……」
三兄弟が顔を見合わせて答えを探している。「きっと今頃はチャットルームで待機中じゃないかと」
「じゃあ本人は来ないんですか?」
「はい。来ないです。来るわけありません」
「本人がいないのにどうやって面接するんですか?」
「え、本人じゃないと駄目なんですか」
「当たり前じゃない。まさか私のこと馬鹿にしてくれてます?」
「来ないのも当たり前なんだな。だって、本人はまだ何も知らないんだからな」
いちばん奥にいた坊主頭のポッチャリが口を出してきた。その横のバンダナを巻いたポッチャリと手を叩き笑い合っている。
「ふざけてんのか! 悪戯ならさっさと帰ってよ!」
真知子の声に三兄弟は押し黙る。
「すいません。我々、本人には言えない事情がありまし――」「ほら、帰れ!」
真知子はチリトリの中身を三兄弟へぶちまけた。慌てふためく彼らに箒をお見舞いし出口へと追いやる。
キャップを被ったポッチャリが最後まで粘っていたが真知子はなんとか三人を追い出した。
床を見るとホコリカスが散乱している。
またやりなおしか――。
しかたなく箒を拾い上げた時、入り口のドアが開いた。引っぱたいてやろうと箒を振り上げると立っていたのは大森だった。
真知子は眉間に皴を寄せたまま「すいません」と顎を下げ、掃除の続きを始めた。大森は紙袋を小脇に抱えていた。
真知子は二度目の掃き掃除をしながら、新人だからという理由だけでは納得できない気持ちを抱えていた。
「大井……」
珍しく大森が声をかけてきた。
「なんですか」
真知子の声はだいぶ低い。
大森は紙袋から雑誌を取り出して真知子へ差し出した。その雑誌は今時の若い娘たちが好きそうなファッション誌だった。
雑誌自体より高価そうな付録を内包しているあのタイプで、中身が飛び出さぬよう厳重に紐でくくられている。
「いりません」
即座に真知子は拒絶した。
好意であることはわかっている。だが、曲がりなりにも社長の地位にある男が、憤慨する新人社員に対して、モノで機嫌を取ることしかできないのかと虚しさすら感じた。
「……開けてみろ」
大森は雑誌を持った手を引っ込めない。真知子は仕方なく手に取った。
雑誌のわりにずいぶんと分厚い。ほとんどが付録の厚さである。
真知子は力任せに紐を引きちぎった。中にはなんのブランドなのかド派手に装飾された手鏡が入っていた。
「……どうだ」
どうもこうもない。鏡などに興味はない。この雑誌にも全く興味がない。
真知子が黙っていると、大森は言葉を続けてきた。
「本来、付録というものはオマケであり――」
「社長、すいませんけど、今、口を開くと、言ってはいけない不満が爆発してしまいそうなんで、話しかけないでもらえますか」
「……わかった」
大森は真知子の申し出をすんなりと受け入れ腰を下ろした。
真知子は切れた。
「なんでそんな簡単にわかっちゃうんですか? どうして、どいつもこいつも深入りしないんですか?」
真知子の切なる叫びだった。
どうして、他人に興味を持って真剣に心の内をぶつけ合おうとしないのか。
大森が立ち上がった。
しかし真知子の問いに答えることなく再び部屋を出て行った。
真知子は手鏡をきつく握り投げつけたい衝動を抑えた。
どれだけの力で握ったのか、両手の爪の中が白く変色していた。
自分が求めすぎなのだろうか――。
ひとり真知子は誰もいない部屋で考える。
今までだって、誰も真知子の本心をわかろうとしてくれなかった。したり顔して相槌を打つ人は可哀相な人を慰めている自分に酔っているだけだ。
その証拠に向こうの実生活に少しでも迷惑がかかるとなるとさっさと離れていった。
大森にもらった雑誌を手に取ってみる。高校生くらいのいわゆるギャルがド派手なメイクで笑っている。
大森がこの雑誌を手にレジに並んでいる姿を想像すると笑えてきた。周囲には援助交際をしたがっている中年として映っていたことだろう。
そう思うと、わざわざこの雑誌を買ってきてくれたことに感謝しても良かったのかもしれない。
手鏡を覗いてみる。そこには誰にも興味を持ってもらえない女が映っていた。このド派手な手鏡に比べてなんと元気のないことか。
真知子は本来オマケのはずの手鏡の存在感に苦笑した。きっと若い娘たちは、鏡が欲しくてこの雑誌を買うんだろう。完全に主従が逆転している。
「オマエ、でしゃばりすぎやで……」
真知子は鏡に向かってツッコミをいれた。そこにはお笑い芸人を真似たような口元の真知子が映っていた。
その瞬間、真知子の背筋に電流が走った。
そうか、そういうことだったのか――。
すぐさま真知子は立ち上がり、部屋を飛び出した。
大森は真知子のことを真剣に考えてくれていた。その真心には絶対に応えなければならない。
真知子は階段の中段から一気にジャンプした。高校時代、幅跳びの選手だった真知子の跳躍は滞空時間の長い美しいものだった。
外に出た。周囲をぐるりと見回し、大森の形跡を探す。
真知子は誓う。何キロ走ろうと何時間かかろうと、絶対に大森を見つけ出してみせる。
駆け出した瞬間、大森を見つけた。建物のすぐ脇でスマホを眺めていた。
「社長!」
溌剌とした顔で真知子が呼びかける。元気の良さが真知子の売りだ。
「社長もあたしもオマケなんですよね。あの雑誌みたいにオマケが出過ぎちゃ駄目なんですよね!」
大森は深く息を吐いてスマホを上着にしまった。
「……大井」
「はい!」
真知子は溌剌とした眼差しで大森を見た。切り替えの早さも真知子の売りだ。
「なぜ、ウチの会社がお前を採用したか考えてみろ。お前なら我が社にすがる人の気持ちを思いやることができるはずだ」
「気持ちを思いやる……」
その言葉は心にズンときた。
私は朝霞を思いやっていただろうか。朝霞のためと称して自分の満足を充たしていただけではなかったか――。
「社長、わたくしあくまでオマケとして引き立てまくってきます。貴重なお言葉、ありがとうございました」
深く頭を下げた真知子は、自分の顔が一回りスリムになったような感覚を抱いた。
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