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まちこのGB 《第1章の7,8》 泰平の眠りを覚ます再始動

【1-7】 大丈夫よ、哀れな子豚ちゃん

 笑い声で溢れていたご婦人たちが一斉に席を立った。皆がこれから夕飯の準備を始めるのかもしれない。
 静寂が訪れた店内で、無言のまま見つめ合う真知子と朝霞がいた。

「……俺、言ったよね」
「何をですか」
「面接の時に、高いところだけは苦手だって言ったじゃん!」

 なかなかの圧を感じた。でも、ここで引くわけにはいかない。私はコンサルタントなのだ。

「これはもう決まったことです。拒否するようでしたら、さっさと私の目の前から消えてください。あくまでこれはビジネスですから」
「ねえ、高い所はホントにダメなんだよ。樽酒飲みながらライブとか、掃除しながらライブとかじゃダメなの?」

 さっきまでの自信はどこへやら、朝霞は泣きそうな顔で懇願し始めた。

「朝霞さん! 昨日の朝霞さんはどこへ行ったんですか! 無理だとわかってても立ち向かうのがロックじゃないんですか?」
「……ロック」

 手首にナイフを当てていた朝霞の動きが止まった。

「やってやりましょうよ! 朝霞さんのつまらない人生、変えていきましょうよ!」
「……つまらない人生」
「毎日、あたしが手伝いますから。一緒に、苦手を克服していきましょう」
「……毎日?」
「はい。一日、一万円です」

※                         ※                         ※

 喫茶店を出た二人の姿は東京タワーの麓にあった。
 
 目的は朝霞の高所恐怖症の度合いを測ることである。
 間近で見上げる東京タワーは、夕焼けに染まり荘厳のひと言に尽きた。

 実は真知子は東京タワーに上ったことがなかった。
 一人で行くと田舎ものだと思われそうだし、都会かぶれの学友たちには言い出せなかったからだ。

 エレベーターを降り展望台の中へと進む。すると目の前に広大な東京の風景が広がった。

 遠くに山々をうかがえた時は思わず感嘆の声を上げていた。
 真知子はずっと山のない空に違和感を覚えていた。

 これが親に意見するほど憧れて、死にたいほど裏切られた東京の街。
 そして今、私は東京をはるか飛び出して世界を相手にする仕事をしている。

「あんまり窓際の方に行かないでくれよ」

 朝霞がオロオロと腰を引いている。

「さあ、朝霞さん。怖がってる暇はないですよ」
「そんなこと言って、あんたも怖がってんだろ?」
「怖がってないですよ。武者震いはしてるかもしれないですけど」
「強がるなって。だって、泣いてんじゃねえか」

 本当だった。真知子が頬を拭うと、湿った流れを感じられた。
 悲しくも悔しくもないのに涙を流すことなんてあるのか、と思ったが、それ以外の感情でも涙を流すことくらいは知っていた。
 ただ、今までの人生でそんな瞬間がなかっただけだった。

「ホントにダメなんだよ……」

 朝霞は窓際に近づいては来るのだが、外を見下ろせるところまでは来ない。

「でも生理的にダメって感じでもないですね」
「ああ、エロいこと考えたりして誤魔化すことはできるんだけど、これだけはどうにもなんない」

 そう言って、朝霞は両手を裏返した。
 手の平には滴らんばかりの手汗が輝いている。よく見ると顔中にも汗が滲み出している。

「こんな状態でギターを弾くなんて無理だろ?」

 確かにそうだ。こんな凄い手汗を真知子は今まで見たことがない。だからといって、諦めるという選択肢はない。目の前には困りきった子豚のような朝霞がいる。

「大丈夫よ、哀れな子豚ちゃん」

 ここからがコンサルタントとしての腕の見せ所だ。
「豚はねえだろ……」という朝霞の呟きも、未来を見据えた真知子の耳には届かなかった。


【1-8】天孫降臨、泰平の眠りを覚ます再始動

 明後日、再び朝霞と会う約束を取り付け真知子はオフィスへ戻った。
 家以外に戻る場所があるという環境はなんと幸せなことだろうか。

 オフィスにいたのは大森だけだった。
 本日の業務報告をしている間も、大森は手を組んで座ったままだった。

 社長の仕事がどういうものか知らないが、ここぞという時に動くのがトップということなのだろう。

 定時になり大森が立ち上がる。食事にでも誘われるかと期待したが、大森は「おつかれさま」とだけ残して出ていった。

 ほんとに謎が多い人だ。というより真知子は同僚のことをまだ何も知らない。どんな仕事をしているかもわからない。

 朝霞のプロジェクトが終われば新人歓迎会があるだろう。真知子はその時が来ることを楽しみに待っている。

 ひとり残された真知子は残業することにした。
 朝霞の件と平行して『GB』についての勉強もしなければならない。

『GB』とはゴルフ場経営で有名なギュネスグループが発行する書籍であり、70年の歴史を誇る。
 過去70年のブックに目を通し、チャレンジや記録を把握しておく必要がある。

 そこには、驚くような記録から笑えるような記録までさまざまあった。ここに朝霞が加わるのかと思うと残業を頑張る意欲が沸いてきた。

 小一時間ほど作業をして、真知子も帰宅することにした。
 外はもう暗く、電車は家路を急ぐ人たちで混み合っていて、社会の一員となった実感が沸いた。

 シャワーを浴び髪を乾かし終えると、缶チューハイを開けた。
 今の私はちゃんと労働をしている。誰の目も憚ることなくお酒を飲むことができる身分だ。

 パソコンを開き、ネットで朝霞のバンドを検索してみると、いくつかの動画がヒットした。
 真知子は、その内のひとつ【Oh! Food Ticket(おしょくじけん)】というタイトルのライブ映像を見ることにした。

 それほど広くはなさそうなライブハウスは客でぎゅうぎゅうだ。ステージ上の三人が演奏を始めると、客の全員が頭を振り出した。
 おそらくギターを持っている男が朝霞だろう。その横では両目を絆創膏で塞いだ男が飛び跳ねながらベースを弾いている。ドラマーは、小柄ながらもダイナミックにスティックを振っていた。

 曲が終わると、盛り上がりの余韻を引きずったまま朝霞が火を噴き出した。客席後方から怒号とともに消火器が噴霧される。
 ライブは中断され、店員と思しき強面の男たちと朝霞たちがもみくちゃになっている。

 真知子は画面に釘付けのまま手許の缶が空になっていることに気づいた。
 一秒でも見逃すまいと大急ぎでもう一本を取りに行き、戻ってきた時に何度でも見られる映像なのだと気がついた。

 新たに缶チューハイを開け、ふたたび再生ボタンを押した。
 近いうちにこの他のメンバーにも会うのだと思うと、よりアルコールが体中に浸透していくのがわかった。

※                         ※                         ※

 同じ頃、朝霞も缶チューハイ片手にテレビの歌番組を見ながら悪態をついていた。

 この番組の出演者の中で真のミュージシャンと呼べる奴はどれほどいるのだろうか。
 アイドルが片手間で歌を出したり、ミュージシャンを名乗っていてもタレント同然の奴らばかりじゃないか。

 食べ終えたラーメンのどんぶりを見ながら朝霞は「クソッ」と吐き捨てた。
 今日のラーメンは卵を切らしていたので味気ないものだった。

 朝霞はこの前の興奮を思い出す。真知子は間違いなく自分の音にグルーブしていた。
 昔は、あんな興奮が毎週のようにあり、真知子のように興奮してくれる人がすぐそばにいた。

 朝霞は流しに溜まった食器を洗いながら決めた。今すぐバンド再始動のために動き出すことを。

 すっかり疎遠になってしまったメンバーたちに電話をかけた。メールの方が気が楽だったが、わざわざ電話することで自分の決意を示したかった。
 二人とも留守電だったので、朝霞は一言だけメッセージを残した。

「泰平のねむりをさます再始動。レッツヘッドバンギング」

 この言葉を聞けば二人は喜んで連絡を返してくるはずだ。
 二時間後、留守電に気づかない可能性もあるので、会合の日時場所等の詳細をメールしておいた。

 明日の夜、久しぶりに【Lucky Inter Hospital】の面々が顔を合わすことになるはずだ。
 平日にも関わらず日付を明日にしたのは、一刻も早くという意気込みを示したかったこともあるが、久々の友達に早く会いたかったこともある。

 朝霞は久しぶりに自分のブログを更新した。十数年前、バンド結成を機に立ち上げたものの、自然と更新は滞りここ数年は放置の状態だった。
 書いたところで誰からもリアクションはないだろうし、時代はSNSなのもわかっている。

 だが今回は記さずにはいられない。だって『天神降臨、いよいよ21世紀最後の大物バンドが動き出す』のだ。

 この記事だって誰にも見られないかもしれない。
 でも、いつでも誰もが見られるようにしておくことが重要なのだ。

 もしも、誰かが、自分のことを思い出してくれた時のために。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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