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まちこのGB 《第2章の7》 そのドアは入り口ですか? 出口ですか?

【2-7】 それは額から流れ落ちる鮮血だった

 よりによってなんで今日なんだ――。
 強風で大きくはためくテントを見ながら朝霞は舌打ちをした。

 手元には三人分の誓約書がある。その不吉な文面を見ていると、これから自分のすることのリアリティを感じた。
 当然、サインはする。ただ、今すぐサインする必要もない。本番まではまだ時間がある。

 なんとなく心に余裕ができた朝霞は、テント小屋全体に目を這わしてみる。
 目の前に並んだ長机とパイプ椅子を見ていると、地元の町内会のお祭りが思い浮かんだ。
 そういえば、地元の同窓会にはもう何年も顔を出していない。

 郷愁に浸っている余裕はなかった。川崎が勘ぐったように実はまだドラマーが確定できていないのだ。
 チャレンジ開始まで、残りあと一時間少々。最悪の場合は想定しているが、本当にそれは最悪の場合にしかしたくないような対処法だった。

 スマホを確認するも、ウンともスンともいった形跡はない。
 机にスマホを出しておき、黒く大きなショルダーバックを膝の上に置いた。
 軽く周りを窺い、中を確かめるように覗き込む。中には真知子が用意してくれた高所対策グッズがつまっている。
 
 いちばん目立つのは、クマさんの人形だ。そのクマは両手にドラムスティックを握っている。
 考えたって仕方がない。なるようになるしかない。

 朝霞はギターをケースから出し、チューニングを始めた。隣でイマチはイヤホンを装着し、リズムを刻んでいる。

 11時を過ぎた頃、朝霞の元に来客があった。

 ハンチングハットに黒ぶちメガネ、硬そうな口ヒゲを蓄えたその男は、黒岩と名乗った。雑誌のライターをしているのだという。
 黒岩は特に断ることもなく朝霞たちの前に腰を下ろすと「お話、伺ってもよろしいでしょうか?」とギョロっとした目を見開いた。 

 黒岩は屋敷の知り合いで、「ネタになるかもよ」と新橋のキャバクラで笑いながら言われたそうだ。
 仕事上、屋敷とは逆らえない力関係にあるようで、まったく興味はないが仕方なく来たのだ、と黒岩は仕方なさそうに言った。

 朝霞は自分を見世物のように扱う屋敷に怒りがこみ上げたが、話題になるのは嬉しいし、インタビューされるのも嫌いではない。
 そう考えるとうまく屋敷を利用したような気になって少しばかり溜飲を下げられた。

 黒岩は声のトーンを上げることもなく、バンドは何年続けているのか、その髪型を作るのにどれだけ時間がかかるのか、月の整髪料代はいくらなのか、などと他愛もない質問を繰り返した。
 さらにバンド名を聞かれた時には「それくらい調べてこいや」と思ったが、朝霞は丁寧にひとつひとつの質問に答えていった。

「見かけによらず穏やかなんですね」
「まあ、歳も歳ですしね。若い頃には想像もしなかったですけど」
「ですよね。僕も昔はとんがってましたけど、成長なのか諦めなのか段々と丸くはなりますわね」

 気がつくとインタビューの枠を越え、朝霞は黒岩と普通に話しこんでいた。
 
 同年代であり、会社に属さずフリーのライターとして生計を立てているところに親近感を抱いた。
 きっと彼も朝霞と同じように将来に不安を抱き、迷っているに決まっている。

「『GB』にチャレンジするということは、まだ一発逆転を狙っているってことですよね。素直にうらやましいですよ。僕なんかも気づけば与えられた仕事をこなしてるだけですもん」
「……まあ」

 朝霞は歯切れの悪い返答をした。なぜだろうか。

「そのテンションというかモチベーションは見習わなきゃだな。この仕事を辞めようとまでは思わないけど、やっぱり惰性でこなしてるところはありますからね」「……はあ」
「実際のところいつまでバンドを続けるつもりなんですか? お互い潰しが利く仕事じゃないし大変ですよね」
「……うん」

 朝霞は自分の歯切れの悪さの原因に気づいた。
 黒岩も自分もなんとか現況を打破しなければとは思っている。しかし、黒岩の場合は不満を抱えつつもライターとしてプロの土俵に上がり金を稼いでいる。
 しかし今の朝霞にとって音楽はアマチュアであり趣味である。なぜなら一円も稼いではいないからだ。

 朝霞の心境の変動を見抜いたのか、黒岩はかすかに眼を細めた。

「朝霞さん、まさかこれって、……最後の大花火ですか?」

 そう言われて初めて朝霞は考えた。今まで考えたことがなかったから、黒岩の問いに対する答えはない。
 朝霞の本音を捕まえた感触があったのか、黒岩は身を乗り出してきた。
 黒岩がゆっくりと口ひげをさすると何かの楽器のような硬い音がした。

「朝霞さん、あなたの目の前にある扉は、入り口ですか? それとも出口ですか?」

 朝霞は黒岩から視線を外せなくなった。朝霞の瞬きの回数が増えるにつれて、黒岩の口元は不敵に歪んでいく。

「ソンナノ関係ネー!」

 ひと昔前の流行語に朝霞が我に返る。そのオウムのように甲高い声の主はイマチだった。
 イマチが顎をしゃくる方向に顔を向けると、矢口がビデオカメラを構えていた。

「……撮ってるんですか?」
朝霞が矢口に声をかける。
「楽屋のシーンから撮影しておいた方がドキュメンタリー感が出せるかな、と思いまして」
「ってことは、この場面も向こうに送るんですか?」
「その方が心情的に、審査に有利だと思いますんで」

「ソンナノ関係ネー!」 

 イマチに肩を叩かれ振り返ると、「お前もなんか言え!」と顎をしゃくっていた。そうだ『GB』に名を連ねようというロッカーがしみったれた顔をしているわけにはいかない。

「F××k you!」

 朝霞は立ち上がりカメラに向けて中指を立てた。その声はイマチに劣らず甲高く耳が痛いほどだ。
 うるさげに顔をしかめる黒岩に、朝霞は大見得を切った。

「いいか、バンドに辞めるも辞めねえもねえんだよ! バンドってのは職業じゃねえ、生き様なんだ!」
「オメエノ髭ヲ蝋デ固メテヤロウカー!」

 朝霞とイマチは大満足のハイタッチを交わし、思い出したようにカメラに向けてもう一度ポーズを決めた。

「……いいな、あんたら」
 黒岩の口ひげの頂点部分が湿っていた。「職業と生き様か……。マンガで見た台詞をまさか実際に聞くとは思わなかったよ」

 黒岩はメガネを外し手を差し出した。

「ああ、『代紋TAKE2』の台詞、丸パクリだ」

 二人は固く握手を交わした。

「朝霞さん、不肖黒岩、きっちりと見守らせてもらうよ」
「屋敷の野郎にも今のやり取り、ちゃんと伝えてくれよ」
「もちろん。しっかり記事にするから。正直、ウチに載せれるネタじゃないと思ってた、すみません」

 黒岩は直立し直角に腰を折った。

「そんなん、やめてよ」
 朝霞は余裕の言葉を投げかけ「そういや、黒岩さんの雑誌ってどこなの?」とパイプ椅子を軋ませた。

「『R‐三十路』っていうフリーペーパーです」
「……それって、駅とかに置いてあるヤツ?」
「ご存知ですか?」
「マジかよ……」

 朝霞が驚くのも無理はなかった。『R−m』の愛称でおなじみのそのフリーペーパーは公称70万部を誇るメジャー誌だ。

「屋敷さんが載せろってゴリ押ししてきたんですよ」
「屋敷が? 『R-m』に?」
「はい。あの人が一円も得しないことに動くなんて珍しいですよね」
「ったく、あいつも余計なことしやがって……」

 朝霞は表情を戻すと憎々しげに吐き捨てた。
 本当に迷惑な話だ。これ以上、期待をかけられても感謝しきれない――。

 朝霞は鼻をグズつかせると、「風が強いと意外と冷えるね」と大げさに両肩をすくめた。
 その横でイマチがトゲトゲマスクをつけたまま盛大なクシャミをかました。

「イツマデ撮ッテンダ、コノヤロー!」

 そうだ、まだ撮影されていた。朝霞は、丸まった背すじを伸ばすと、腕を組みカメラを睨み付けた。
 カメラを止めた矢口は、じっとイマチを見ていた。

「ドラムの方はまだいらっしゃいませんか」

 矢口は朝霞に声をかけるが、視線はイマチに向いたままだ。

「ああ、もうそろそろ、来ると思うけど……」
「もう時間ですよ」

 時計を見ると、時刻は11時半になろうとしていた。先ほど川崎に告げられたタイムリミットである。朝霞の頬が三度ばかし細かく震えた。

「いや、もう今にでも来ると思うんで。でも、もし来なかったりしたら、俺がドラムもやっちゃうのもアリ、かな~、なんてね!」

 朝霞はおチャラけて言うのだが、矢口はクスリともせずに朝霞を見据えている。

「朝霞さん、現実的な話をしましょう」
「いや、だから現実的にギターは手でドラムは足で――」
「ドラマーはいない。違いますか?」

 矢口は前振りもなくいきなり核心をついてきた。朝霞は息を呑むのが精一杯で言葉が出ない。矢口はさらに畳み掛けてきた。

「そのこととウチの大井の所在がわからないことは関係ありますか?」
「な、な、なんですか、急に……」
「その『急に』はどっちですか? ドラマーが来ないことか、大井の所在のことなのか」
「だから、急に、なんなんだよ、そんな言葉責めされても困るよ」

 やっぱりこのタイプの男は苦手だ。なんでも理詰めで追い込んでくる。

「僕は、責めてもなければ攻めてもないですよ。じゃあ順番にいきましょう。ドラマーは百パーセント来ない、そうなんでしょ?」
「そんなこと……」
 
 朝霞は口ごもる。だって実際に来ない確率は百パーセントではない。
 視界の端でイマチが苛立たしそうに足を踏み鳴らしているのが見えた。

「わかりました。それじゃ大井の無断欠勤の件につい――」
「ソンナノ関係ネー!」

 とうとうイマチの我慢が限界を超えた。バッグからクマさん人形を取り出し勢いよく机に叩きつける。その衝撃でスイッチが入ったクマさんが、ポコポコとドラムを叩き始めた。

「コレデ両方、問題ネー!」

イマチは身を乗り出し矢口を睨み付けている。

「朝霞さん……」すっかり外野になっていた黒岩が朝霞に口を寄せる。「ドラマーがこれって、アヴァンギャルドすぎませんか?」

「バレナキャ問題ネー!」

 イマチはすごい剣幕でサングラスをずらし直接矢口を睨み付けた。矢口は一度顔をしかめたあと、深く息を吐き目線を切った。

「……まあね。まあ、それは別にいいよ。でもドラマーが人形ってのはさすがになしだ。あのドラムセットとそれ用のスタッフ借りるのにいくら掛かってると思います?」

 朝霞は促されるままステージに目を向ける。完全にライブセッティングは終わっており、スタッフがドラムの試し打ちをしていた。

 今、朝霞の感情は空っぽだった。数値でいうとプラスでもマイナスでもないニュートラルな状態。
 ただ、気持ちがまっさらな分、冷静なアイディアが浮かぶこともある。

「これだ!」

 突如朝霞の目に光が宿った。

「ドラム、いるぞ……。ドラム、いる!」
「どこにですか……」

 あきれ気味に矢口はあたりを見回している。

「ここに、いる!」

 朝霞は片言の日本語ながらもしっかりと黒岩を指差した。

「え、僕?」
 黒岩が驚く。そりゃそうだ。
「お前、本名は、渡辺!」
「ちょ、ちょっと」

 黒岩はチラチラと矢口の様子を窺うが、矢口はただ眺めているだけだ。

「頼むこの通りだ! あんたが本当は上海で、サプライズで整形してきたって言ってくれ!」
「でも、ドラムなんてできないですよ」
「そんなもんはどうだっていいんだよ! 頼む!」

 朝霞は黒岩の足元に土下座して懇願した。「頼む、頼む」と何度も頭を地面に打ち付けている。

「ちょっと朝霞さん!」

 黒岩が体を張って土下座を止めると、朝霞は黒岩に縋りついた。

「中止だけは困る。俺はどんな結果になろうとチャレンジしなきゃいけないんだよ」

 そう言うと朝霞は再び頭を打ちつけ始めた。

「ソンナノ心配ネー!」

 イマチの金切り声が響いた。
 朝霞は苦悶の表情で振り返り、動きを止めた。
 視線の先に上半身裸の男が立っていた。
 荒い呼吸で息を切らし、その引き締まった大胸筋と腹筋は膨張と収縮を繰り返している。

「ゴメン、寝坊した上に携帯止められててさ、家から走ってきたら遅くなった」

 渡辺の登場だった。タイトな黄色いジャージを履いたその姿は、さながらブルース・リーのようだった。心なしか髪型も似せてきたように思える。

「上海……、家からって何キロあんだよ!」
「おかげでパンプアップは完了。いつでも本番いけまっせ」
「ストイックすぎるべ!」

 朝霞と上海は大きく笑った。
 なんなんだこのこみ上げてくる感情は。安心感か、信頼感か、それとも自分がまだ言葉にできない、今まで感じたことのない感情なのだろうか。

「そういえば、これ」黒岩が何かを取り出した。「屋敷さんから、渡しておいてくれって」

 これは――。
 朝霞が屋敷に貸していた外タレのバンダナだった。

「まあ、なんだかんだ屋敷さんも応援してんでしょうね」

 朝霞の手の中でバンダナが湿り気を帯びていく。ただ、その手汗はいつもとは違う種類のものだった。
 不安や恐れではない、期待からくるワクワクした手汗だ。

 朝霞は湿ってない手の甲の方で、両目を拭った。「別に泣いてるわけじゃねえからな!」誰にともなく言い訳した。

 自分でも泣いてしまったのかと思っていたのだが、それは額から流れ落ちる鮮血だった。

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