まちこのGB 《第2章の1,2》 創作のエクスタシーは性的快楽を超える
【2-1】 表に出ないゴタゴタはすべてお任せください
誰かのために自分ができること。
自分にしかできないことはなんなのか――。
昼下がり、海を見渡せる橋の上で朝霞は考える。
なんど悩んでも導き出される答えはひとつだ。曲を作るのだ。今の気持ちをメロディに乗せ、自分にしか歌えない歌を作るのだ。
すぐ近くを飛行機が飛んでいる。幼い頃はすごく小さい乗り物なんだと思っていた。初めて目の前で見た時は、その大きさに感動した。
この乗り物が世界へと繋がっているのかと思うとワクワクした。
ギターを初めて手にした時もそうだった。この楽器が自分を世界へ導いてくれると本気で思っていた。
甲子園に出場することを夢見ていた少年は、日本どころか世界を変える野望を抱いた青年となった。
ギターを担ぎ無心で爪弾いてみる。すると自然とメロディが浮かんでくる。そのメロディーに気の赴くまま言葉を乗せてみる。
売れる曲かはわからないが、嘘偽りのないリアルな今の心境だ。聞いてほしい人のために、聞かせたい曲がある。
朝霞は欄干に立ち、大空に向かい歌い始めた。
通行人の心配をよそに、朝霞は自分が危険な高所に立てていることに気がついていなかった。
※ ※ ※
真知子に連絡を入れるとすぐに駆けつけてくれた。
全身真っ黒な格好だったので、葬式でもあるのかと聞くと、真知子はイメチェンですよ、と自信満々なキメ顔を見せた。
さっそく真知子に先ほど撮影した新曲の映像を見せることにした。朝霞の部屋で撮ったアコースティックギターだけの弾き語り映像だ。
出来立てほやほやの新曲は歌の力量が問われるバラード調の曲だった。
新曲を他人に聞かせる時は今でも緊張する。だがこの緊張の瞬間は悪いものではないことを朝霞は思い出していた。
映像が流れている間、朝霞は台所でガスコンロを磨いていた。せわしなく手を動かしながら、耳だけで自分の曲を聞く。
この曲は、なんとか売れようとあれこれ考えず、自分の内から沸きあがるものをそのまま素直に形にした。この曲には朝霞の想いや熱がこもっている。
曲が終わった。朝霞はカメラの停止ボタンを押し、真知子の反応を待った。真知子はなかなか声を出さない。朝霞は真知子の顔を見ることができない。
「いい曲じゃないですか……」
朝霞はようやく顔を上げる。真知子の眼は潤んでいた。
やっぱり誰かの不幸があったのではないか、と朝霞は思う。
「どこがいいってわけじゃないけど、目を瞑って聞いてたら、朝霞さんの心の叫びみたいのがすごく胸に刺さりました。眼を開けて朝霞さんを見たら一気に冷めましたけど、いい曲ですよ!」
朝霞の心臓の奥がプルンと震えた。
創作のエクスタシーは性的快楽を超えることを朝霞は思い出していた。
「この曲の名前は決まってるんですか?」
「とりあえず、『Ah,have a pain』にしようと思ってるよ」
「……痛みを持ってる、ってことですか?」
「ん? まあ、そんな感じ」
朝霞は上気した気持ちを悟られぬように努めてクールに返答した。
自信を深めた朝霞は映像をYoutubeへアップし、ブログ上に大々的に告知を載せた。
「来る6月9日の土曜日に『GB』にチャレンジするぜ!」
もうこれで後戻りもできないし、格好悪い真似もできない。自分にプレッシャーをかけて追い込むのだ。
ただひとつ、朝霞の努力だけではどうにもならない問題があった。
このギュネスチャレンジの条件は『バンド』でなければならない――。
バンドとしての体裁を保つにはあと二人は必要だ。しかし、屋敷と渡辺が協力してくれることはないだろう。他のバンド系の知り合いにも頼めるような奴はいない。
同等かそれ以下の奴らは見下して、自分よりも売れてる奴らには金に魂を売ったと罵倒する。つくづくダサい男だったと今の朝霞は冷静に考えることができた。
朝霞は正直に事の顛末を真知子に話した。自分がぶつけられた言葉やそれに対する自分の思いも全て話した。
話し終えると、なんだか肩が軽くなった。胸の内をさらけ出すのも悪くないなと思った。
だが問題は、今の朝霞の肩こり具合など関係ない。どれだけやる気があったって『GB』に門前払いされてしまえば意味がない。
真知子は、どこかで見た刑事のように両目を閉じ、眉間を指でポンポンと叩いている。
きっと解決策を考えてくれているのだろうが、そう簡単に答えなど出るわけがない。彼女はバンドなどに縁のない世界の人間なのだ。
「最悪、俺がドラムとベースを担いで、一人でバンドってことにするよ。大道芸人でやってる奴もいるし……」
真知子は依然、両目を閉じたままだ。マッサージのようにポンポンと顔の外周を指でなぞっている。
「朝霞さん、表に出ないゴタゴタはすべて私に任せてください」
真知子が目を開けた。迷いのない顔を朝霞に向ける。
「なぜなら、私は朝霞さんのコンサルタントだからです。困っているクライアントを窮地から救うのが私のミッションです。だから朝霞さんは演奏面のことだけ考えていてください」
この人なら本当にどうにかしてくれそうだと朝霞は思った。
真知子は意気揚々と部屋を出て行った。結局、これといった解決法はひとつも出なかったが、朝霞は真知子を信用することにした。
最悪でも一人でやってみせる。バンドだろうがソロだろうが、人の心を動かす力は同じだ。
朝霞は押入れから久々にステージ衣装を引っ張り出した。漆黒な革製のライダースジャケットとロングパンツである。
ジャケットの背には見事な刺繍が施されていた。患者服を着た骸骨が巨大な注射器に貫かれている。
当時、服飾の学校に通っていた恋人のイツコが、病んだ日本の音楽界にキツイ注射を打ってくれ、とわざわざ仕立ててくれた自慢の逸品だ。
バンドの全盛期、勝負をかけたライブではいつもこの格好でステージに上がった。この服はお守りであり、ミュージシャンとしての朝霞を象徴するものだった。
太り始めた頃からあらゆるボタンが留められなくなったが、なんとか当日はこの衣装で演奏したい。
朝霞は、久しぶりにこの衣装を引っ張り出した自分に、この衣装を手にしても意外なほど心が落ち着いている自分に驚いた。
【2-2】見事に胸を撃ち抜く言葉
完全に朝霞のスイッチが入った。
毎日の自主練は熱を帯び、ジョギングも欠かさず行っている。禁酒はもちろん、食事は蒟蒻ゼリーのみで乗り切るつもりだ。
一生のうちのたかが数日間、気合で乗り越えると心を決めた。
お昼時、朝霞はジョギングの途中で通りかかった公園で足を止めた。共栄ビルメンテナンスの仲間が休憩をしているのが見えたからだ。
朝霞は人数分のジュースを買って、差し入れとして持っていくことにした。
実のところ、この時間にこの公園で休憩を取っていることはわかっていた。現場の予定や人員はすっかり頭に入っている。
突然、姿を現した朝霞を皆が暖かく迎えてくれた。自分が辞めたことによってみんなには負担をかけているはずだ。それなのに誰も朝霞を責めることなく、ギュネスチャレンジも応援に来てくれると約束してくれた。
なかでもいちばん朝霞を慕っていた後輩の滝本は嬉しいことを言ってくれた。
「早く戻ってきてくださいよ。朝霞さんがいないとツマンナイんすよ。晴子さんもなんだか最近カリカリしっぱなしだし――」
晴子のことはずっと気になっていた。やはりまだ怒っているのか、晴子からメールの返事はきていなかった。
ちゃんと謝るべきだとわかっているが、その気持ちは『GB』のチャレンジに代えることとした。つまらない意地だが、それが朝霞が考える晴子との関係だった。
滝本らと別れ、いい気分で公園を歩く。公園には、疲れた顔のサラリーマンたちも休息にきている。なんとなく彼らを眺めながらスーツ姿の自分を想像してみた。
ありえない――。
自分には木陰で肩を落とす背中よりも汗で湿った背中の方がよく似合う。
ひとり納得し歩を進めると、知った顔を見つけた。肩を落とす背中たちの中に渡辺がいた。
渡辺はその童顔を曇らせうつむいていた。たしか奴は、フリーペーパーの営業をしていたはずだ。協力してくれる店舗を探し、契約数に見合う歩合で給料が決まると言っていた。
渡辺は弁が立つほうではない。いろいろと苦労が多いのかもしれない。
渡辺は急に立ち上がり携帯電話で話しはじめた。朝霞が聞いたこともない高い声でペコペコと頭を下げている。
朝霞は足を止めその背中をじっと見ていた。
電話を終えた渡辺が朝霞に気づいた。
朝霞が「よっ! 上海」と声をかけると、渡辺は携帯電話を耳に当て朝霞に背を向けた。朝霞はかまわずに言葉を続けた。
「遊びでいいからよ、たまにはスタジオにはいろうぜ!」
渡辺がドラムを好きなのはわかっていた。ドラムを叩いていると、その小柄な体がとても大きく見えるのだ。
渡辺の小さな背中はこちらを向いたままだ。
「お前のドラムで、ギター弾きたいんだよ!」
これは本心だ。不思議なことにまったく同じフレーズでも人によってしっくりこないことがある。グルーヴが生まれないのだ。
渡辺は携帯を下ろしゆっくりと振り返った。
「最初からそう言えよ……」
渡辺が呟いた。「屋敷にもそう言ってやればよかったのに」
「あいつのベースは違うんだな。前に出ようとしすぎるんだよ。上海もリズム合わせるの大変だっただろ?」
渡辺が微笑んだ。癒しの上海スマイルは健在だった。
「上海、今度の土曜さ――」
今度は本当に渡辺の携帯が鳴った。渡辺がすまなそうな目配せをして耳に当てる。
きっと上海は仕事の電話をしている姿を見られたくないだろう。朝霞は「またメールするよ」と声をかけ立ち去ろうとした。
「ちょっとすいません」
渡辺が通話口を手で塞ぎ朝霞に顔を向けた。
「あの新曲、すごい良かったよ」
嬉しかった。渡辺の言葉は見事に朝霞の胸を撃ち抜いた。
朝霞は背を向けたままニヒルに二本指を振った。
世界が自分のために回り始めたような気がしていた。
でも今の朝霞は決して油断することはない。驕ることなく練習を繰り返し新曲を体に染み込ませる。
弾いているようじゃ駄目だ。勝手に弾いている領域まで昇華させるのだ。