まちこのGB 《第2章の10,11》 骸骨が見上げた青い空
【2-10】 12時を5分ほど過ぎたころ、チャレンジが始まった。
「そろそろ行きましょうか」
ビデオカメラを構えた矢口がテントに顔を出した。
時刻は12時。チャレンジ開始の時間である。
「よし、行こうか」
【Lucky Inter Hospital】の三人が立ち上がり円陣を組む。
それぞれが肩に手を回し顔を寄せる。
「俺からは一個だけ。先人たちに憧れるのはやめよう。俺らは画面を見ているんじゃない。今日の俺らは画面の中にいる」
この言葉は朝霞が昨日から温めていたものだ。
「天孫降臨! L・I・H! L・I・H!」
三人で掛け声を繰り返し気合を入れた。
子供たちが覗いているのが見えたので、小学生バージョンに変更する。
「運、国際、病院! 運、国際、病院!」
その言葉の響きに子供たちが爆笑している。もしかしたら今の小学生たちもいまだ同じ様な言葉遊びをしているのかもしれない。
三人でハイタッチを交わし、それぞれジャックダニエルを回し飲む。
朝霞は真知子特製の皮手袋をはめ、屋敷から返ってきたバンダナを首に巻いた。
渡辺は鞭をドラムスティックに持ち替えスナップを利かせてしならせている。
真知子が担ぐベースにはスパンコールで彩られた山本五十六が輝いていた。
「朝霞さん、そういえば意中の彼女は来てるんですか?」
「は?」
「最後に上から告白するって約束したじゃないですか!」
「ちょっと~、いるんじゃん! いるんじゃん!」
「意中の彼女ね……」
朝霞は首を伸ばし、外の様子を窺ってみる。
「来てます?」
「うん……」朝霞の顔はとても穏やかだ。「まあ、楽しみにしててよ。なによりまずはライブの成功だ」
「そうですね。成功させなきゃカッコつかないですもんね」
観衆の中に知った顔はひとつとして見えなかった。晴子はもちろん滝本ら、仕事仲間たちの姿も見えない。
でも、朝霞は気にしない。彼らが社交辞令で応援に行くと言ったわけじゃない確信がある。清掃業という性質上、休日しか仕事のできない現場があることも理解している。
いつもしていたようにギターのヘッドにキスをする。そして担ごうとすると「ちょっと待って」と渡辺の声がした。
「マチコちゃんも、来て」
渡辺は朝霞の背中に手を添えて、注射器に貫かれた骸骨の頭をさすっている。促されるままに真知子も手を添える。
「朝霞の気持ちは複雑かもしんないけど、ずっとやってきた勝負の前の儀式だからね」
「そりゃそうだ。それはそれ、これはこれだな」
朝霞はそう言って、真知子特製サングラスを手にした。健康的な外人女性のヌード写真が隙間なくレンズを埋めている。
思えば今日の日付、6月9日はロックの日だ。記念すべきこの日に憧れの先人たちに恥ずかしくないステージをしてみせる。
朝霞は両手で頬を張り、新たなステージへの一歩を踏み出した。
テントから朝霞たちが姿を現すと、会場にざわめきとどよめきが合わさった。
真知子に手を引かれた朝霞の視界はサングラスで塞がれている。その分、周りの声がはっきりと耳に入ってくる。
「あの綿棒みたいなギター、目が見えねえのか?」
「どうせ、目立ちたいだけのイロモノだろ?」
「うんこ臭い病院! うんこ臭い病院!」
なんとでも言えばいい。非難も賞賛も行動したからこその産物だ――。
ひと通り係員から説明を受け、塔へと登る準備を終えた。
朝霞は真知子に導かれ、階段を上っていく。視界は塞がれているため恐怖はない。ただ風がすごいのは感じる。上半身裸の渡辺は寒さが応えているかもしれない。
鉄骨を叩くブーツの音だけが響く。真知子は声ひとつ上げないが、恐怖に耐えているのかもしれない。握る手の力が強まっている。
そういえば真知子は、今日の新曲は特定の誰かのためのものじゃないかと言っていた。もし誰かのためならば、その誰かを朝霞も知りたかった。
自分は誰のためにこの曲を書いたのか、誰に聞かせたいのかを。
ようやく階段を登りきったのか、真知子の足が止まった。
「朝霞さん、思ったよりもぜんぜん低いですよ。SASUKEで言うと反り立つ壁くらいですもん」
震える声を押し殺している真知子からジャックダニエルを受け取ってゴクリとやった。とても静かだ。すぐ耳元を通過する風の音もはるか下から聞こえるざわめきもどこか他人事のように思える。
「みなさん、セットしますので一人ずつこちらに来てください」
係員とのやり取りを終えると、三人はそれぞれの配置についた。
朝霞は手探りでマイクの位置を確認し、目隠しの状態での演奏を確かめるようにギターをかき鳴らした。
流れるような高速の指さばきで紡がれるひずんだ高音が下に向かって落ちていく。渡辺もそれに合わせて、両手両足をフル回転させている。
そうだ、これだよ――。
ドラムとギターの音が混ざり合い共鳴し、膨張収縮を繰り返すドームの中にいるように感じる。
朝霞は渡辺の方に顔を向けタイミングを探る。ここだ、という場所でピッタリと二人は音を止めた。
何秒かの静寂の後、うなるような歓声が下の方からせりあがってきた。
ちなみに真知子のベースは初めから電源を繋いでいない。
「Lucky inter hospital、演奏始めます。曲は『Ah,have a pain』。聞いてください」
朝霞は口元を恍惚に歪めながら、妙に殊勝に開幕を告げた。
「オメーラ! 蝋ヲ垂ラシテヤルカラナー!」
真知子はしっかりと与えられた役割をまっとうしていた。
「ワン……ツー……、イー、リャン、サン、スー」
渡辺のスティックがカウントを鳴らし、緩やかにビートを刻み始める。
真知子はうなだれたままリズムに合わせ首を揺らしている。
朝霞はコードd7を歪んだ音でゆっくりと奏でた。
こうして12時を5分ほど過ぎたころ、朝霞たちのチャレンジが始まった。
滑り出しは上々だった。
上海のドラムは一音一音包み込むような柔らかいリズムを響かせている。ミドルテンポのバラードによくはまる音だ。
周りの状況は見えないが、背中と耳で全てを感じられる。まぶたの裏のスクリーンに情景が浮かぶ。
上海のドラムに屋敷のベース、そして目の前には盛り上がる箱詰め状態のオーディエンスがいる。
今、朝霞は満員のライブハウスのステージ上にいる。客の皆が自分に向かい腕を振り上げている。
客席の一番奥で静かに見つめている人物がいた。
その人物はぼやけてよく見えないが、きっとその人物こそこの曲を聞かせたい人だと思った。
その人物に焦点を合わせようと集中する。なんとなく黒っぽい格好をしている女性のようだが、周囲の盛り上がりが邪魔をしてはっきりとは見えない。
もう一度目を凝らそうとした時に、急な突風が吹いた。
その風は朝霞のサングラスを片耳からずらしてしまうほどの勢いだった。
朝霞は演奏を続けながらなんとかサングラスを戻そうとした。しかし真知子特製の分厚い皮手袋は朝霞の日常の感覚を狂わせた。
予想よりも早く、そして強く、自分の手はサングラスへと到達していた。
あっと思う間もなく、急な明るさがまぶたを通して飛び込んでくる。
朝霞は反射的に目を開けた。
ゆっくりとサングラスが落下するのが見えた。
その先には見たこともないような景色が広がっていた。
「どうしました!」
予定にない突然のシャウトに真知子が反応した。しかし真知子の声はだいぶ遠い。突風によりバランスを崩した真知子は尻餅をついている状態だった。
「上海さん、演奏だけは止めないでください! チャレンジはまだ続いています!」
「オッケーマン! 朝霞、俺が繋いでる間に立て直せ!」
二人の気持ちは伝わったが、朝霞は硬直したまま動けずにいた。
きつく目をつぶっていても、あの光景は既に焼きついている。
汗が滲み出す。まぶたがプルプルと震え始めている。
「絶対に目を開けちゃダメですからね!」
わかってる。集中だ。集中さえできればこの恐怖を乗り切れる。
朝霞は頭のチャンネルを切り替え、再び客席の一番奥にいる人物に焦点を合わせる。だけれどもその間で飛び跳ねている男たちが邪魔をしてどうしても見えない。
「朝霞さん、絶対に下を見ちゃダメですよ! 死ぬほど怖いですから!」
その人物はどうやら口元を両手で囲い何か叫んでいるようだ。邪魔だ、周りの野郎ども。振り上げる腕をどけてくれ。
「朝霞さん、やっぱり下を見てください!」
そこでふと、朝霞は気づいた。
周りの野郎どもは朝霞の邪魔をしているわけじゃない。彼らも純粋にライブを楽しんでいるだけだってことに――。
そう思うと朝霞の視点が一気に広がった。一番奥の女性とその周りの男たちの顔がはっきり見えた。
彼らは声を合わせて自分の名前を叫んでくれていた。
朝霞の眉間からりきみが抜けていき、すごく自然にまぶたが上がった。
『あさかさ~~ん!』
その声は現実だった。重なった野太い声が自分の名を呼んでいる。
「朝霞さん、さっさと下を見て!」
視線の先にみんながいた。真っ青な作業服を着た集団が、一斗缶を打ち鳴らしながら頭上でタオルを振り回している。
その集団の一番奥の人物がはっきりと見えた。そこには祈るように見上げている晴子がいた。
朝霞は目を閉じた。目の前の景色を遮断するためではない。目の前の現実を噛み締めるためだ。
みんなの自分を呼ぶ声が聞こえる。目を開ける。そうだ、感傷に浸っている場合ではない。演奏を続けろ、歌を届けろ、だって俺はミュージシャンなのだから。
「あ~いたい、あ~いたい」
朝霞は遥か下にいる晴子を見据えてサビのパートを繰り返す。
「あ~いたい、あ~いたい」
晴子だけではない。その周りの仲間たち、さらにその周りの知らない人たち。
「もう、あ~、痛くない!」
ずっと探していた答えが、今はっきりとわかった。
自分にとってバンドとはなんなのか、なんのために音楽を続けているのかが。
空港から飛び立つ飛行機が見えた。
空へ向かって突き進むその姿はとても勇ましい。よし、自分もこのギターの轟音とともに自由に大空を羽ばたくのだ。
今の俺ならきっとできる。
朝霞の様子がおかしくなり始めたことに真知子は気づいていた。彼は見たこともないような恍惚な表情を浮かべている。
朝霞はギターをスタンドに置くと、何かに導かれるようにジワジワと前の方にせりだしていった。
危ない――。
真知子は朝霞を止めようと近づいて手を伸ばす。しかしベースのネックは自分の腕より長かった。
『おっちょこちょい』の『ちょい』ってなんだろう?
突然、真知子の視界から朝霞が消えた。
次の瞬間、見上げるギャラリーたちから一斉に悲鳴が上がった。
【2-11】 それぞれの注射器
雲ひとつない青空を背にゴムに吊られた朝霞の体がバウンドしている。
係員が慌てて巨大なエアーマットを運び入れている。
朝霞はぐったりとしたまま弾み続けている。
「ナイスバンジー!」
興奮して囃し立てる一団の最後尾にいる晴子のもとに、ひらひらと包帯が舞いながら落ちてきた。
晴子は包帯を掴み、落ちてきたその先を辿ってみる。
そこには両手を広げて天使のように空中を漂う朝霞がいた。
朝霞が微笑んでいたので、晴子も微笑みを返した。
「胸の前で腕を組んでください!」
係員の女性が怒鳴っている。
何度目かにしてようやく朝霞が反応した。
朝霞は胸元に手を運び、着ていたライダースジャケットのジッパーを下ろした。
朝霞は依然として穏やかな顔で笑っていた。
「チョー、気持ちいいーー!」
突然の雄叫びと同時に、朝霞はライダースジャケットを脱ぎ捨てた。
蜘蛛の子を散らすように人が消えた真ん中に、ジャケットは美しい放物線を描きながら落下した。
注射器に貫かれた骸骨が天空を睨みつけている。
逃げる人波に逆らって、近寄ってくる少年がいた。
そのスポーツ刈りの少年は骸骨を見つめながら、自分にとっての注射器はなんなのかを思い浮かべた。