息子は背中を追いかける
昨日に続いて、猛暑を予感させる朝だった。
公園脇の道を、駅へ向かう勤め人たちが黙々と歩いている。
この公園を横切った方が駅まで近いのに、足を踏み入れる人はいない。
その理由は、木陰にずらっと並び立つ段ボールハウスにあるのかもしれない。
しんとした園内にひとりの女性がやってきた。隙のない身なりで顎をツンと上げて歩く、気高そうな女性だ。
途中、女性は地面に落ちている何かに気づく。二歩ほど過ぎた後に引き返し、腰をかがめて手に取った。
しばしそれを眺めて、辺りを見回す女性。
すぐ横のベンチにスーツ姿の初老の男性が座っていることに気づく。
男性は四角い眼鏡をかけて、髪の毛は油できれいに撫でつけられているように見える。
女性は臆することなく歩み寄り、「もしよければ警察に届けてもらえませんか」と拾ったものを差し出した。
女性はそこで気づいたはずだ。
男性のスーツが薄汚れていて、硬くひび割れた手のひらに黒ずんだものがこびりついていることに。加えて、つんとすえたような匂いが鼻をついたかもしれない。
でも女性はひるまない。この落とし物は無下に扱うには気がひける代物だ。
女性が拾ったものはキーホルダー付きの家の鍵だ。
鍵だけなら無視できたかもしれないが、ぶら下がるキーホルダーが曲者だった。
そこには、着飾った小さな男の子を真ん中にして幸せそうに笑う三人家族の写真が収まっている。
女性にも同じくらいのお子さんがいるのかもしれない。もしくは、そんな家庭を夢見ているのかもしれない。はたまた、失った過去の思い出がよぎったのかもしれない。
とにかく女性は、今やホームレスと確信して疑わない男性にそれを託し、振り返ることもなく歩き去った。
「私は人として最低限の対応はしたからね」
汗染みが浮かぶ白いブラウスの背中はそう語っていた。
残されたベンチの男性は、受け取った鍵をろくに見ることなく脇に放ると、すぐ隣にあるゴミ箱を物色しはじめた。
会社員が毎朝とりあえず駅に向かうように、ホームレスは毎朝、とりあえずゴミ箱を漁るのだろう。
ろくな収穫もなかったようで、ベンチに戻った男性はポケットからしなびたタバコを取り出して火をつける。ひと息つくと、思い出したようにちらと横目で鍵を窺う。
彼は今、何を考えているのだろう。
最寄りの警察までの道筋か、それとも、自分がホームレスになる前の、帰る家があった頃の生活か。
二年前の彼であれば、警察に届ける以外の選択肢などありようもなかった。
元々の彼は実直を絵に描いたような人間で、平凡ながらも幸せな家庭を築いていた。多くを語らずとも常に背中で家族が進むべき道を示してきた。
家族はその背中を信頼し、未来を託してきた。
彼の息子は自分が親になった時、父のようにあらねばと重圧に潰されそうになるほどその背中は偉大だった。
そんな彼が二年前に突然姿を消した。
残された家族は後に知ることとなる。彼が知り合いに騙されて借金を背負わされ、内緒で蓄えを使い果たしたこと。さらに、その三ヶ月前にリストラされていたことを。
彼は良き夫であり父であり祖父であった。
だから彼を責める者などなく、失踪の理由も家族を思っての行動だと疑わなかった。
だが、この二年という月日は彼を変えてしまったのかもしれない。
彼は孫が生まれた七年前に禁煙し、一度決めたことは決して曲げない男のはずだった。
今や太陽は完全に姿を見せている。男性は鍵に目を向けたまま、じりじりとした時間が過ぎていく。
男性が動きを見せた。
ひび割れた指で鍵を摘まみ上げると、ようやくキーホルダーの写真に気づいたようで一瞬表情を変える。
和装姿の三人に、七五三の記念写真だと思い当たる。刀を振りかざす孫の姿に胸を打たれ、ほんの二年前に孫から手渡されて涙ぐんだ自分の姿をきっと思い出すはずだ。
さあ、ここからが本番だ。
あの頃のように、背中で道を示してくれ。
手にしたものをじっくり眺めたあと、男性はゴミ箱に鍵を捨てた。置いたでも捧げたでもなく、放り投げた。
それで正解なんだね、お父さん――。
最後まで見届けた僕は、スーツの襟を正して父親のもとへ向かう。木陰から出ると、やはり陽射しは顔が歪むほど厳しかった。
それでも、僕の気持ちはなぜだか軽くなっていた。
僕はまた父の背中を追いかけている。まずは、家族にばれることなく夕方まで時間を潰す方法を教えてもらうつもりだ。