まちこのGB 《第1章の16》 一心不乱に便器を磨く瞬間
【1-16】 次の瞬間、一心不乱に便器を磨き始めた
誕生日からちょうど一ヵ月後、朝霞は免許センターにきていた。
二日酔いで面倒だったが、今日までに免許の更新を済ませないといけない。
平日の昼間に時間が取れるのはシフトを調整できるアルバイトの特権だ。
今の自分はバイトもしてないさらに自由の身だ。
いつ来ても更新の列は長蛇の列だ。検査を受けるゲートは遥か先に見える。
周りを見ると学生に毛が生えたような若者がそれぞれの態度で並んでいる。きっと自分は傍から見れば同じような年代に見えるだろう。
自分のライフスタイルは若い。
ぼんやりした頭で免許を眺める。写真は三年前の自分だ。にもかかわらず、今の自分と三年前の自分はそう変わらなかった。
くしくも写真と今は着ている服も同じだ。三年前の朝霞が、挑発するような目で今の朝霞を見ている。
朝霞は急に列から外れ、表へ出た。
ベンチを見つけ腰を下ろす。
そこは喫煙所だったらしく朝霞と同じような格好の若者がたむろしていた。
「悪いけどタバコくんない?」
久しぶりにタバコでも吸おうと、すぐ横の金髪で坊主の男に声をかけた。男の集団が怪訝な顔で朝霞を睨みつけている。
朝霞はその挑発するような視線を真正面から受け止めた。べつに喧嘩になったってかまわない。
朝霞の雰囲気に気圧されたのか男は素直にタバコをくれた。そしてなぜか原付バイクを盗んだ話や、誰々をぶっ飛ばしたなどと威勢のいい話を始めた。
朝霞の見かけはなにか危なげな雰囲気を醸し出している。彼らは勝手に舐められないように虚勢を張っているのだろう。
「あの……」
男のひとりが話しかけてきた「もしかして、蒲田のタンク先輩っすか?」
男たちは緊張の面持ちで朝霞を見ている。よく見ると彼らはそうとう若い。
「ああ」
よくわからないが朝霞は適当に答えた。久々のタバコに朝霞の頭はクラクラしている。
すると若者たちは急に自己紹介を始めた。周囲を気にせずに大声で自分の所属先を申告している。
朝霞は思った。
こんな俺でもデカイ顔ができる世界があるのか。こいつらといれば毎日、退屈しないですむかもな……。
周囲の人たちに注目されているのがわかる。決して近寄っては来ずに遠巻きに様子を眺めている。
その中の朝霞と同年代らしきスーツ姿の男が煙たそうな顔をしているのが見えた。
急に馬鹿らしくなった。
朝霞は立ち上がりその場を後にする。
三年ぶりのタバコはまるで風化した犬の糞のような味がした。
家に戻るとさっそく発泡酒をあけた。いつの間にかテレビでは六時のニュースが始まっていた。朝霞は流れるすべてのニュースに難癖をつけた。
便所で用を足していると、便器のふちが黒ずんでいることに気がついた。もうかれこれ半年は磨いていない。誰も掃除をしないのだから汚れて当然だ。
半年前は間違いなくきれいだった。それは自信を持って言える。なぜならきれいにしてくれる人がいたからだ。
水を流したくらいじゃビクともしない黒ずみを眺めていると、朝霞は途端に言いようのない不安に襲われた。
次の瞬間、朝霞は一心不乱に便器を磨き始めた。
毎月の消費者金融への返済が3万円、一念発起し去年買ったギターのローンが月に2万、家賃の6万8千円の他に光熱費なども当然かかる。さらに、GSJへの支払い15万円がそこに加わる。
クソッタレ。
便器を磨く腕に力がこもる。
きっと世間の37歳はもっと金を持っているのだろうが、自分は金に代えられない何かを成し遂げる男のはずだ。
朝霞はトイレを飛び出しギターを手に取った。アンプにシールドを繋げ電源を入れようとすると、隣からドンと壁を叩く音がした。
こんなことは初めてだった。自分はまだ音を出していないのだ。
さらに壁は叩かれ続け、その音には一切の遠慮が感じられなかった。
隣の様子を探ろうと壁に耳を近づけてみる。隣は大学生の女だったはずだ。だが、耳をつけるまでもなく、壁越しに笑い合う複数の男女の声が聞こえてきた。
朝霞には自分が笑われているとしか思えなかった。
今度は朝霞を恐怖が襲った。
指はガタガタと震えギターを握っていられなくなった。
今まで気づかないようにしてきたことが全部浮かび上がってくる。結婚、子ども、老後の自分――。
こんなはずじゃなかった。自分は他人とは違う孤高のアーティストのはずだった。だからこそ自分の趣味がわからない奴や意見が合わない奴は切り捨ててきた。
その結果、気づくと周りには誰もいなくなっていた。自分を見てくれる人がいなくなっていた。
朝霞はギターを放り投げ、代わりにナイフを握った。あれだけ震えていた指が、ナイフを握ると落ち着いた。
隣の部屋の音が止んだ。とても静かだった。朝霞がナイフを動かすのを待っているように感じた。
突然、音が鳴った。今度は玄関が激しく打ち鳴らされている。ドンドンと遠慮のない音が続く。隣の奴らが朝霞を笑おうと直接乗り込んできたのかもしれない。
「アサカ~!」
狂ったような甲高い声が自分の名を呼んだ。朝霞はナイフを放り投げ布団にくるまった。
もうこんな姿を誰にも見られたくない。放っておいてくれ。
「アケロ~!」
しまった。入り口の鍵は開いたままだ。
ドアが開く音がして、誰かがドカドカ上がりこんできた。布団の隙間から恐る恐る顔を覗かせる。
そこには顔面白塗りの髪をおったてた人間がいた。
真知子だった。
「イツマデ、ウダウダシテンダヨ!」
一人いた。今の自分を見てくれる人がこの世に一人だけいた。
「あなたが私を必要としてくれるから、私はここにいるんですよ!」
そうだよ。頼むから俺のことも必要としてください。
お願いだから俺を見守っていてください。
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