まちこのGB 《第1章の14》 むくみきった顔の汚れきった豚
【1-14】 むくみきった顔の汚れきった豚
就職後、初の週末を真知子は満喫していた。
普段働いているせいか、休息とのメリハリがついている。いつも休んでいるような毎日の時は休日の実感もありがたみもわからなかった。
昨日は街に出て楽器屋へ行った。完全に朝霞の影響である。
そこで店員にうまくおだてられ、初心者用のベースギターを買った。ベースを選んだのは弦が四本で簡単そうだったからだ。
いちおう仕事のためだと領収書をもらっておいたが、楽器を弾いてみたいという衝動は大きかった。
家に帰り早速練習してみたのだが、すぐに指先が痛くなった。
店員が言うには真知子はベースを弾くために生まれたような指をしているらしいので、そのうち上手くなるだろう。
それから真知子は一日中ベースにどんな装飾をしようか考えていた。
朝霞たちの楽器もステッカーやらペイントやら派手に装飾されていた。
そして今日は、朝霞たちのバンドの練習を見に練習スタジオへ向かう予定だ。バンドのメンバーと顔合わせをして士気を高めようというわけである。
こちらの本気度を示すために真知子はベースを担いでいくつもりでいる。時間があればベース担当の人に教えてもらったっていい。
電車を降りて駅前の雑踏を歩く。あいにく今日は朝から雨だ。傘を差しながらベースを担ぐのは非常にかさばった。
耳に挿したイヤホンからは、聖飢魔Ⅱの曲が流れている。
楽器屋の店員に「化粧をしていて激しい人たち」を訊ねたら薦められた。デーモン小暮の存在は知っていたが歌を聴くのは初めてだった。
一緒に薦められたKISSよりも聖飢魔Ⅱの方が気に入っている。何しろ演奏が激しくて速い。
スタジオに到着した。もっと地下深くの薄暗い場所なのかと思っていたが、明るく綺麗な建物だった。
受付で予約を確認し、ロビーで座って待つことにする。
広々としたロビーには見るからにバンドマンな若者がたむろしている。意外と女の子が多いことにも驚いた。
防音扉越しにバンドサウンドが鳴り響いている。扉が開くとリアルな音の塊が輪郭を伴って飛び込んでくる。
真知子は知らない世界へ足を踏み入れた自分にワクワクしていた。
待つこと15分。いくら待っても朝霞が来ないので、予約してある部屋に入ってみた。他のメンバーもまだ来ていなかった。
六畳ほどの部屋は壁の一面が鏡で覆われ、大きなスピーカーがいくつも置いてあった。
初めて目にしたドラムセットはシンバルや太鼓が思ったよりも大きくて興奮した。
この閉め切った空間で爆音を掻き鳴らすのか――。
朝霞たちがここで演奏しているのを想像すると、本気の人だけが入ることを許された厳粛な空間に見えてきた。
真知子は気を引き締めた。自分はこの部屋では新米のど素人だ。
ドラムセットで適当に遊んでいると、スタジオの扉が開いた。
真知子は悪戯が見つかった子どものように直立し背筋を伸ばした。そしてわが目を疑った。
目の前にはむくみきった顔の汚れきった豚がいた。
朝霞は傘も差さずに来たのか、傷んだ髪の先からポタポタと雨を滴らせ、朦朧とした目つきで薄ら笑いを浮かべている。
酒の匂いを漂わせ、その無精ひげを見るに風呂に入っていないことも容易に想像できた。
こいつは、こんな状態で電車に乗ってきたのだろうか。
朝霞は床にドスンと腰を下ろし、驚きで動けない真知子をさらに驚かせる言葉を、その臭い口の穴から吐き出した。
「悪いけど、あれだ。もう中止するから」
真知子は何ひとつ理解できなかった。
ダイエットをしているはずの朝霞が、バンドの練習をするはずの場所に手ぶらで現れ「もう止めだ止めだ」と腹の肉を掻いている。
「あの……、まったく意味がわからないんですけど……」
「わかんないかな~」
朝霞は今も酔っ払っているようで「もうバンドを辞めるって言ってるの!」とヘラヘラ笑っている。
口角は垂れ下がりまるでブルドックのようだ。
「あの……、『GB』へのチャレンジはもう来週ですけど……」
「だから~、バンドを辞めるんだから『GB』も止めるんですよ~」
朝霞は見るからに投げやりな態度で、男梅グミを次々と口に放り込んでいく。
真知子は推測した。きっと彼は迫り来るプレッシャーに押し潰されて現実逃避している――。
「朝霞さん、不安なのはよくわかります。でも、私を信じていれば絶対に大丈夫ですから」
「もういいって。俺はさ、あんたなんかが近寄れるような安い男じゃねえの!」
その通りだ。朝霞には既に『GB』チャレンジのコンサルタント料金が発生している。
途中キャンセルがいくらになるかはわからないが、少なくとも10万円近くのお金はかかるはずだ。
心配した真知子がそれを告げると、朝霞は「金なら払ってやるよ!」と財布の中身を床にぶちまけた。
「釣りはいらねえ」と顎肉を震わせているが、わざわざ数えるまでもない。一万円札は一枚も見当たらない。
この男はなんて哀れなのだろう。わざわざそのしみったれた退屈な世界から引っ張りあげてあげようとしているのに、真知子が垂らす蜘蛛の糸が見えていないのだ。
「朝霞さん、ちゃんと考えましょう。あなたはそんな人じゃないはずです。私にはわかります」
「あれ~、勝手に仲良し発言。そんな人ってどんな人?」
「あなたは私に言ったじゃないですか。俺は本気だ、なんだって努力して克服して見せるって。あれは嘘だったんですか?」
「嘘もなにも、あんたが最初に言っただろ? この関係はビジネスだって。金は払ったんだから、文句はな~んもないはずじゃん」
閉め切った空間に朝霞の引きつった笑い声が反響する。真知子は落ち着こうと朝霞から顔を背けたが、鏡に映る朝霞が目の前にいた。
「俺はさ、あんたがあまりにも一生懸命だからちょっと遊んでやっただけだよ。むしろ金をもらってもいいんじゃないの〜?」
真知子は鏡越しに朝霞を睨みつけた。しかし、今やシジミのような目をしょぼつかせた朝霞は気づくはずもない。
「……なんで、ですか」
「なんで? って聞くのなんで?」
「なんでせっかくのチャンスにしがみつかないんですか?」
きっと朝霞は今までもこうしてチャンスを潰してきたのだろう。だからこそ腹が立つ。チャンスとはそう何度も舞い降りてはくれない。
鏡の中の朝霞が立ち上がり近づいてくる。
振り返るとすぐそこに朝霞がいた。
朝霞は両手を壁につき、覆い被さるように真知子を見下ろした。
臭い息が塊として真知子の鼻に飛び込んできた。
真知子がじっと目を逸らさずにいると朝霞の方から目を逸らした。朝霞は素早く二度ばかし目を泳がせると真知子から離れた。
「これ、大井ちゃんのベース?」
真知子が声を出さずに頷くと朝霞は勝手にケースからベースを取り出した。
真知子とのこれ以上の会話を拒絶しているように見えた。
「ベースの屋敷さんに教えてもらおうと思って持ってきたんですよ」
真知子のベースを眺めていた朝霞が手を止め、フンっと笑って顔を伏せた。
自分の愚かさにようやく気づいたのかと真知子は朝霞の動きを待った。
「なんだよ、このだっさいペイント!」
じわじわと笑いがこみ上げてきたのか、朝霞は鼻を鳴らしてむせこんでいる。
「普通楽器には憧れのバンド名とかフレーズを書くんだよ。誰だよ、山本五十六って!」
朝霞は腹を抱えて咳き込んでいる。最悪だ。この三重あごの三段腹はもう私の手には負えない。
郷土の誇りである偉人を馬鹿にされた真知子が冷静さを保つのは限界だった。
「もう死んじまえ、この豚!」
真知子はそう吐き捨てて、朝霞の頬っぺたを引っぱたいた。朝霞はドスンと腰を落としガクリとうなだれた。
真知子の手がヌルリと脂ぎる。
「悔しかったらなんとか言ってみろ!」
朝霞がゆっくりとゾンビのように頭を起こす。
朝霞の返答は「ブーブー」だった。
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