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デ・キリコ展の感想(個人的な話)
神戸市立博物館で開催されているデ・キリコ展に行った。とても良かった。気に入った。初めて図録を買った。社会人になってから美術館には頻繁に行くようになったが、今年知り合った友達も美術館に行くらしくて「美術館とかって感性使うから疲れる」と言っていた。わたしは美術館に行くといつも脚が疲れるが、デ・キリコ展を経て、彼女の考えが「言葉」ではなく「心」で理解できた。
脚が疲れるとは書いたが、わたしはいつも美術館では情報を統合していて、知識の定着の場になってしまっていたかもしれない。ゴーギャンの絵画を見て、「これ『月と六ペンス』でモデルになった画家や!」と奥さんに言って「へえ、そうなんや」と優しげだがあまり何も思っていなさそうな反応をされていた見知らぬ男性にも「わかるでその気持ち」と思ったし、印象派の絵を見て「これは筆触分割といって…」と連れ合いに語っている美術好きの男性に負けじと、わたしもお母さんに「チューブから出たままの原色で細かく塗って目の上で色を作らせると明るくきれいな発色が生まれる、色は濁ると汚くなる」などの説明をした。でも、今までたとえばターナーはきれいとかクールベは性格が好きとかは思っていたが、感性というほどの感性を使っていたかは今振り返ると疑問に思う。
これが公開された当時見ていて、美術館の話がどこかで言及されていたが(どこかは忘れた)、そこで述べられていた言語思考者の感じ方に近かったかもしれない。少し違うけど、感覚でしかとらえられないものを情報にしてしまっているみたいな…。
でも今回のデ・キリコ展では、絵の持つエモーションを感じられた。キリコの概要について、福島繁太郎の『近代絵画』のシュールレアリズムの章の以下の記述を紹介する。
ギリシア生れのイタリア人、ジョルジオ・ド・キリコの作品がパリで見られるようになったのは一九一三年以後であるが、彼の芸術は前二者よりも遙かに意識的でシュール・レアリスムに近づく。始めは「リュ・イタリアン」の如く遠近法を誇張して建物や人の陰影をファンタスティックに長く引かせ、そこに奇異なるエモーションを起させた。詩趣豊かで、彼の最も優れた作品は恐らくこの時代のものであろう。次いで諸の機械類の奇妙なる取合せによってエモーションを起させる方法をとった。彼は一九一五年にイタリアに帰り、一九二四年まではパリにこなかった。
二度目にパリにきてからは、ありふれた日常生活上の合理的関係を急激にはずし、不気味な理屈なしの偶然性で、これ等の物を組立てもって人に感動を与える考えに発展した。その頃キリコは「家具が屋内から取り出され、波立つ海岸や又は大きな山々に囲まれた谷に置かれた場合は、その家具は特別の性格を持つということを、私は絶えず思っている。私の近作はこのエモーションを現わさんとするものだ。」といい、又「塑像は美術館の室内に安置されるものとわれわれはきめているが、若しこの塑像が現実の椅子に腰掛けていたり、或は窓に寄り掛っていたらどうだろう。その効果は驚異的である。」というようなことを述べている。
彼のノスタルジィーは、時にローマの甲冑武士を近代風の室内で闘争させ、又時にはギリシアの神殿の柱の破片が散らばる海岸に馬をおどらせる。ところが一九三〇年になると、突然このシュールレアリスムの傾向を止めて、一寸ルノアールを思わせる果物や裸体を描くようになった。その以後ずっとこのレアリスム傾向を続けているようである。それ故に一九三〇年以後の作品は、その以前とは別に論じなければならない。
フランス人のピエール・ロアは、シャガールやキリコよりも年長であるが、オニリークの傾向を帯びたのは彼等よりも遅く、しかも始めは、キリコの「リュ・イタリアン」時代の影響を受けていた。一九二〇年頃より、もっともありふれた物も彼独特の方法で奇抜にアレンジするようになった。海岸に二つの柱を立て、その柱の間に絲を渡し、それに巨大な鳥の卵や磁石をぶら下げる。そして地上に置かれた荷車の轍には大きな紙のテープがからまっているというような趣向、各の物はベルメールのような克明な写実風に描いているが、その物の相互の関係が通常在るべき関係でなく、きわめて非合理であり、又物の大小の比例もめちゃめちゃである。アラゴンが「非凡なほど平凡」と、言葉のあやを弄した一番見馴れた物を非合理的な関係に置いて、異常なエモーションを起すことはキリコと趣を一にしているが、キリコのエモーションが不気味な物を持っているに反し、ピエール・ロアのそれは、手品師の何もないポケットから生きた鳩を出すような朗らかな不思議さを持っている。
キリコもピエール・ロアも、ありふれた物を非合理的関係に置いてエモーションを起す芸術であるから、その物自体は一般人にわかり易い写実でなければならない。何であるかが解りにくいと非合理的関係に置かれてあっても手品は鮮やかにはいかない。例えば、卵は写実的に描かれてあって、外見的には一般人にも卵とすぐ解ることが必要である。しかし卵は、通常あるべき合理的関係を失っているからその性格は変わっている。キュービィスムの物の外見は変わっても、物の性格は変わっていないのとはまるで反対である。
「ところが一九三〇年になると、突然このシュールレアリスムの傾向を止めて、一寸ルノアールを思わせる果物や裸体を描くようになった。その以後ずっとこのレアリスム傾向を続けているようである。それ故に一九三〇年以後の作品は、その以前とは別に論じなければならない。…」とあるが、この本でそれ以降のことが言及されていないのは、よく考えたらこの本は1952年に出版されたものだからだった。作品のなかには1970年代のものなどもあった。わたしがもっとも良いと感じたのは、形而上絵画だった。形而上絵画はキャプションを覚えている限りだと、遠近法が使われているけど一部のものは違う視点みたいなので描かれていて(たぶん、キュビスムほどではないが)、見ていて不安や違和感を起こさせるようなもの、という感じだった。図録をみてみると、おそらく以下のところかなと思う。
デ・キリコの語法と空間の進化は、イタリア広場の連作から、しかと読みとることができる。1910年から1911年にかけての作品は、依然として伝統的な遠近法で構成され、基本的には正面から見た構図となっているものの、すでにわずかながら側面からの視点をも強いている。こうして生み出された微妙な不均衡と知覚の混乱は、伝統的な視覚への警戒と疎外感を構図に付与する。デ・キリコは、一見よく見慣れたものの表面が、古典主義の確固たる根源のヴェールに覆われてなお、解読不能な謎をほのめかすような、不穏な世界の感覚をいかに提示しうるかを考えていた。1912年の絵画では、遠近法の不調和はよりあからさまで深刻なものとなり、空間性を圧迫しているさまが見てとれる。消失点が増え、異なる場所と高さに配置されたことで、位相がずれ、座標を失ったかのような世界の知覚が際立つ。
1913年、デ・キリコはこの技法的工夫を猛然と推し進め、これまで以上に無謀で過激な遠近法を考案する。遠近法のシステムの爆発は、ここにきていよいよ明白で驚異的なものとなった。その性質上、世界を破綻なく表現するはずの遠近法は、画家が公然と採用した支離滅裂かつ脈絡のない取り扱いによって、夢のイメージにも似た、いっそう非現実的なものと化したのである。
こういった形而上絵画を見ていると、たしかに不安(不安と言うべきかもわからない)になったが、心地よい不安だった。それはわたしが社会不安傾向で不安に慣れ親しんでいるからというのもあるかもしれないが、図録にある「不穏な世界の感覚」というのが自分が世界に感じている感覚と似ているからかもしれないと思った。これを絵を見て感じられたことに最も感動した。
絵に関しては、たしかにアンリ・ルソーの影響を受けてそうな感じもあったり、ルノワールの影響もあったり、古代のモチーフや影が黒い古典的な手法、またシュールレアリスムの発展の前提条件ともなるような神秘的な作品など様々でとても楽しめた。ニーチェの思想にもかなり影響を受けているというが、わたしは詳しくないので全然感じられなかった。また知っていったら見方も変わるんだろうなと思う。
冒頭で書いていた友達はキリスト教に親和性があるため「最近日本人のアーティストの現代アートを見たが、西洋のキリスト教的思想が土台にないのでまとまりを感じず、まだ生きている人だということもあって、理解しづらかった」と言っていた。その意味の一部も少しわかった気がした(全然わかってないけど)。今回の展示で、部屋の天井が低い絵があって、その説明でギリシャの空は高くとも手が届くように感じるらしくて、それはギリシャ神話の神と人の近さに由来するとか、よく用いられているS字っぽいモチーフは生命の再生を意味していて古代の日本でも使われていたとか書いていて、西洋文化の源流ともいうべきギリシャ出身というのが色んなところで感じられて、うまく説明できないけど彼女の言うところの「思想の土台がわかる」とは、こういうことの(現状わたしは情報しかないけど)もっと深い感覚バージョンみたいなことなのかなと思った。自分が親しんでいるものと源流が同じだとそれが真に感じられるのだろうかと思った。ちなみに言わなくてもいいことだが、彼女の「西洋のキリスト教的思想が土台にないので…」というところで西洋が至上だと思っているように感じるかもしれないが、そうでもない。彼女に以前「日本的心性といじめ」という記事で言及していた、キリスト教文化圏に存在するヨーロッパの教養概念がないために日本ではいじめがあると本に書いていたという話をすると、西洋の人も性格良いわけではないという内容のことをもっといい感じに言っていて、感動した。彼女は国際的なことにも専門的知識があった。そういう人に自分が思ったことや調べたことのさらに上のこと(たしかにそうやわ…と思えること)を言ってもらえると嬉しい。わたしが微妙なことを言ったときに正しかったりやさしい反論をしてくれる人がめっちゃ好ましい。ともかく今回、色んなことを感じられて良かった。